らくだのねあせ                      主教 ステパノ 高地 敬

  何年ぶりかで風邪をひいて、近所の内科に行きました。今どき珍しく薬くさい待合室で、夜だったせいか待っているのは一人だけでした。診察室はもっと薬くさくて、書類などがあらゆる空間に詰め込んである感じです。
 私よりも少し若そうな男性のお医者さんが、「はい、のどを見ますから、あーって言って」と言うのですが、情けないことに「ひゃー」としか声が出ません。
 一応の診察が終わって、一言(冷たく)「じょうきどうのかんせんしょうですね。」一瞬「はぁ(じょうきどう?感染症?風邪じゃないの?)、風邪ですか?」「そうです。」(すると、「上気道」ってことかなぁ。)質問する勇気もなく、薬はどうするかという話に進んでしまいました。
 何もあんなふうに言わなくても、「のどがちょっと腫れてて、かぜですね」と言ってくれた方が安心するのですが。難しい言い方をして格好をつける人には見えませんでしたから、このごろは「風邪」などというあいまいな言い方をしなくなったということでしょうか。
 次の日は寝たり起きたりしながら、「あんな難しい言い方をするからはやらないんだ」とぶつぶつ考えていて、でも、自分も似たようなことをしているなと思えてきました。正確に言おうとして自分でも良く分かっていない言葉を使ったり、難しい言い方をして話をはぐらかそうとしていることが多いようです。
 新約聖書はもともと当時のギリシャ語の話し言葉だそうです。つまり読みやすい言葉遣いです。これはイエスさまの分かりやすい話し言葉から受け継がれているのだと思います。そんなイエスさまには人がたくさん集まり、その人柄にふれ、病気のしんどさも何もかも一緒に持ってもらえたのでした。


(教区主教)