らくだはひらがな                    主教 ステパノ 高地 敬
 
 「あんたがそんなこと言うてたらあかんで」と言われそうですが、難しい話や文章にますますついていけなくなっています。特に、字がたくさん書いてあったり、字が細かいものは苦手です。これは老眼のせいでもありますが、文章が漢字だらけだったりすると、とたんにしんどくなって読めなくなってしまいます。がまんして読もうという気力が起こりませんし、無理して読んでいると、「こんなことしててもいいのか」と思ってしまいます。
 教会には聖書や印刷物がたくさんあって、もちろん字がたくさん書いてあります。「これを読んで、神の恵みを知れ」と言われても、読むことが得意でないので、本当に困ってしまいます。
 大きな声では言えませんが、神学校に入るのも気が進まなかったのです。「勉強についていけへんで。牧師になれたとしても、異端の説教するかも知れんで」と父に言いましたら、「それでもかまわん」と言っておりました。(「ごたごた言わんと腹くくれ」ということだったのでしょう。父のこの言葉で神学校に行くことに決めたのではありませんが。)
 「こんな私でも用いてくださる」なんて、自分の口からはとても言えません。逆にこんな私だから「神さま、私のことは忘れて、いなかったことにしてください」と言えれば言いたいのです。
 ある神学生が先日、「イエスさまから伸びたつなを放せば楽になれるのに、つなにしがみついているから傷だらけになってしまう」と感慨をこめて言っていました。なぜか分からないけど、どうしてもつなが放せないんですね。ただ、そろそろ本当につなを放そうと思ってよく見ると、私から伸びたもう一本のつなを、傷だらけのイエスさまが握っておられました。(教区主教)