2022年4月17日  復活日          主教 ステパノ 高地 敬
 
「勇気ガナクテ」

 先日、聖地のオンラインツアーがあって、参加しました。オリーブ山から徒歩で長い狭い道を下りて、キドロンの谷(ヨハネ18:1)を越え(信号を渡り)、エルサレム旧市街への坂を上がり、ステパノ門から入って、ベトザタの池(ヨハネ5:1)まで行くというコースでした。途中で見学などするので1時間以上かかりましたが、普通に歩くと20分くらいでしょうか。イエス様はオリーブ山で夜を過ごし、昼は神殿の境内で教えられた(ルカ21:37)ので、何日かこの道を通われました。自分で歩いたようで、地形がよく分かりました。ご自分が死ぬことになるエルサレムに通って人々を教え、それが引き金となりオリーブ山のふもとのゲッセマネの園で捕らえられます。イエス様はどんな思いを持ってこの道を通われたのでしょうか。

 大江健三郎の小説『燃え上がる緑の木』では、四国の山の中の共同体のリーダー「ギー兄さん」は、病気の人を癒すようなことがあって、人々から「救い主」と呼ばれるようになります。ある日、共同体の病気の子どもが連れてこられます。「人を治すことはできなくても、治すふりだけでもしてください」という周囲の願いに対して彼は、「私がナニヨリソウシタイノニ、勇気ガナクテ!」と答えます。いつも彼の近くにいる人物は、「それを聞いて、あの人が高いレベルでの本当の『救い主』かも知れないと思った」と言っていました。強いふりをする勇気がないと言い、意気地なしに見える救い主。みんなの期待に応えられない。
 ギー兄さんは、反対グループの攻撃の標的となって車椅子の生活になります。ある時、近しい人たちと自動車で出かけますと、反対グループがその車を止め、「出て来い、出てこい」と叫びます。ギー兄さんは車椅子で出ていき、彼には見えていたもっと過激なグループの方に向って行き、石を投げられて殺されます。
 「ギー兄さんはあの近い行く末を具体的に見通していられたのだ。そして、殺される者が自分であり、他の者ではないように、痛みと苦しみをすべて引き受けたギー兄さんを追い詰めたのは、『救い主』と信じた自分らなのだ。二千年前にも同じようなモデルがあり、それを認めないでいられない。自分らの酷(むご)たらしさを自覚し自分らの罪を生きるほかない。そしてその罪の媒介をしてくれるのは、あの人なのだ。」
 「勇気ガナクテ」と言った人自身があえて殺されていくのは矛盾しているようですが、この世の知恵で生きる勇気はない。でも人のために誠実に生き、殺されていく。だからこそ彼は救い主としてみんなの中で記憶され、生きて動き始めていくのだと思います。
 イエス様はオリーブ山の坂道を下りながら、救い主としての活躍の期待に何も応えられないことを思い起こしながらも、神様に誠実に生きる道を歩きぬかれました。