主日礼拝についても、聖餐式の陪餐の方法についても、教会の中には幅広い考え方があります。
「主日礼拝も陪餐も、これまで通り続けなければならない」と考える人もいれば、「この際、主日礼拝のために集まること自体がよろしくない」と考える人もいます。どの意見が正しいのでしょうか。正しい意見というものがあるのでしょうか。
私たちはいろんな判断をし、その結果いろんな記憶の中で生きています。うれしい記憶、うれしくない記憶。楽しい記憶に悲しい記憶。また、人に傷つけられた記憶があり、人を傷つけてしまった記憶もあります。たとえ謝ってもらっても決して赦せないことがあります。人を傷つけたのに謝りもしていないことがあり、記憶から消そうとしても消せないこともあります。傷つけ、傷つけられる。今回のことも含め、そのようなことが少ないに越したことはないのですが、私たちは多かれ少なかれ互いに傷つけ合う世界の中で生きているのではないでしょうか。「お互いのリスクを避ける」ことが最高の価値だとすると、今後もずっと2メートル必ず空けて生きなければならない。そんなことができるでしょうか。
マッテヤ佐々木二郎主教は京都教区第4代主教で、1941年から1962年まで司牧されました。若いころウィリアムズ主教に、「キリストの兵隊さん、しっかりやってください」と2度言われたとのことで、そのウィリアムズ主教が生涯一度だけ自分のために建てられた家があり、「それが私の今住む家である」と書いておられます。
佐々木主教は骨董品が大好きで、造詣がかなり深かったようです。「富者は千金万金
を出して完全のものを入手する。然(しか)し貧乏牧師では煙草銭位(たばこせんくらい)の金を財布の底までたたいて買うたもので大部分が瑕物(きずもの)であった。土の器としての人間にもいろいろあって、第一完全なる物か第二瑕物か第三偽物(にせもの)か、どれかに属する。私たちは第一部類の完全器であり得ないこと明白である。然し決して第三の偽物贋物(がんぶつ)であってはならぬ。私達
お互いはせめて第二の瑕物でありたい。」
私たちは人に傷つけられた瑕を持ち、人を傷つけた瑕も持って生きています。人を大切にしようと思っていても、恐らくこれからも人を傷つけてしまい、傷つけられることもあるでしょう。「人は生まれ乍(なが)ら瑕物であるともいえる。瑕物であることを自覚しない事が却(かえ)って恐ろしい。私たちは瑕物であればこそ主イエスの贖罪の愛を知る事も出来
たのである。」
こんな時だからこそ教会とは何だったか、改めて振り返ることができればと思います。教会も社会の要請に応えなければならない時はあります。ただ、教会が大切にすることと社会が大切にすることとが一致しているとは限りません。
多くの人が「自分は正しい」と言う社会の中で、教会に集まる者であるからこそ、「私たちは瑕物であり、完全器であり得ない」ということを真摯に認め、キリストのご復活にならう新しい命を、いつもいただくことができればと願います。
|