2019年4月21日  復活日          主教 ステパノ 高地 敬
 
これほどまでに愛されて  ただ信じる

 イエス様一行がエルサレムに入った時、一般の人たちは歓呼して迎えました。それは、弟子たちにとっても晴れがましく感動的なひと時だったでしょう。この感動を保ったまま、エルサレムでの活動が続くのだと彼らは想像していたでしょう。でもその後イエス様は捕まって、あっけなく死んでしまわれました。それで弟子たちは、イエス様のことをまた一所懸命考えたことと思います。「あんなすばらしい人。私たちのことを大切にし、愛してくださった人。この方にさえ従っていけばいいんだと思っていたし、大好きだった。そのイエス様がおられなくなって、私たちはどうすればいいんだろう。イエス様と一緒にいた日々には意味がな

かったのだろうか。二日前の金曜日には、大事な大事な方を見捨てて裏切ってしまった。でも、あの方は十字架の上で私たちを恨みに思っておられなかったらしい。私たちを責めておられなかったらしい。こんなにも卑怯でちっぽけな私たちをここまで認め、赦してくださった。」イエス様が死んでしまわれた後になって、弟子たちはようやく気が付きました。いや、イエス様が死なれたからこそ気が付くことができたのかも知れません。自分たちが最高に愛されていたのだと。
 ある信徒の方にお勧めいただいた『出家とその弟子』(倉田百三)の中で親鸞が言っていました。「信心には一切の証はないのじゃ。・・・・・信じて欺(だま)されるのは、まことのものを疑うより、どれほど優(まさ)っているだろう。」
 報われることが確かだから信じるのだと私たちは考えますが、「証はない」、信仰の結果どのようになるのかについて確かな証拠はない。それでも信じるのだ、何を信じるかということよりも、「ただ信じる」ということが言われているのではないかと思います。
 イエス様の生前、弟子たちはイエス様のなさるとても不思議な業(わざ)を見て、イエス様の素晴らしい教えを聞いて、イエス様を信じ、従っておりました。信じるに足りる方だと考えたから信じたのですが、イエス様が十字架の上で死んでしまわれると、イエス様は信じるに足りなかった。あるいは、自分も仲間だと知れると危険だと、弟子たちは逃げて行きました。つまり、信じるに足りないから信じない。
 「信じる」ために、何かの判断をするべきなのでしょうか。信じるに足りるかどうか、しっかり判断してから信じるということもあると思いますが、私たちが神様の恵みを信じているのは、イエス様の奇跡と教えによって信じているというより、無残に殺されてしまったイエス様を通してでありました。つまり、私たちが神様に最大限愛されているからでありました。イエス様が死なれたからこそ、弟子たちも私たちも、神様のお恵みを豊かに受けていきます。私たちを大切にし、愛してくださる方をただ信じる。これが私たちの教会の信仰ではなかったでしょうか。
 弟子たちがこのように神様のお恵みを豊かに受け取った時、毎日の生活が楽になったわけではありませんでしたが、弟子たちのものの感じ方、考え方は大きく変えられました。「ひたすら人を愛する」などという生き方があることを知り、彼らの人生そのものが大きく変わり、新しい命をいただいて、彼らは新たに生きることになりました。それは彼らだけの経験ではなくて、すべての人に、神様のお恵みと新しい命を示すことになりました。二千年来、確実に伝えられてきたこの信仰を、私たち自身もまた、一人でも多くの人に伝えることができればと思います。