動させるためだったと言われます。ローマ帝国内で一斉に行ったというより、州ごとに定期的に行われ、皇帝や領主に忠誠を尽くす宣誓も要求されたようです。とにかく支配者が都合よく治められるようにするための「登録」でありました。そのために十何年かに一度、みんな出身地に帰らなければなりません。宿屋もいっぱいで、あの満員列車以上の大騒ぎだったでしょう。交通手段もロバくらいしかなく、病人も死者もたくさん出るような大混乱だったと思います。ただでさえ落ち着きのない社会がなおさら乱れている。私たちの救い主のご降誕はそんな中で起きた出来事でした。
その一方、天使が羊飼いたちに現れて救い主が生まれることを告げ、その幼子を訪ねるよう促します。そして天の大軍が加わって神様を賛美し、天に去ったところでこのシーンは終わっています。夜、多分真夜中、「主の栄光が周りを照らした。」照明などほとんどない時代に、神様の栄光が輝いて夜が昼のように明るくなる。正に天の国の光が地上にまで届いている。
羊飼いたちはベツレヘムまで行って、「乳飲み子を探し当て」、「天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰っていった」。天の光を受けた羊飼いたちは、暗い夜の間に世の中の混乱の中を進み、救い主である赤ん坊にまで至ります。為政者は広人を抑圧し、世は混乱して暗いままですが、彼らが受けた光は世の真っただ中を進んで、見えない光で世を照らしていったのではないでしょうか。
世は暗いままですが確かに天の光を受け、世を照らす光となる救い主が生まれました。天の輝く光を秘めた生まれたばかりの赤ん坊。その救い主が持っている光は、目もくらむほどの光というよりも、ほのかに光るばかりのものだったでしょう。世の中も人もそんなほのかな光を受けて光り輝きはしない。私たちは相変わらず混乱した暗い道を進まなくてはならないでしょう。でも、確かに救い主は生まれられ、ほのかですが光を放ち、十字架の上で死んでいかれました。その十字架の上の姿からも私たちは大切な光を受けておりました。いつまでも暗い中にいるのではない。必ず抜け出るときがある、その約束の光を私たちは受けておりました。
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