パウロは悪い人だったけれど、この時いい人になった、という単純なことではないようです。目が見えるようになった。つまり、それまでと物事の見え方が全く変わったということではないかと思います。ナザレのイエスの教えは良くないと思っていたけれど、とても良いということに気が付いたということでしょう。でも、どこが良いと気が付いたのでしょうか。
私たちはそれぞれ自分の考え方というものがあって、だいたいそれを尺度にして物事を判断しています。自分の仕事や生活で少しでも良い結果が出るように考え、自分の行動やグループの有り方を決めていきます。そして、自分はだいたい良い尺度を持っていて、良い判断をしているとも考えています。
その上に私たちはクリスチャンとして、困っている人たちや社会のためにもっともっと役に立たなければならないと思って、一所懸命物事を判断し、少しでも良くなるように願っています。クリスチャンとして当然のことと思えるのですが、判断の尺度になっているのは自分の考え方です。「いや、私は神様と同じ正しい判断をしている」と言える人はいませんし、そのように言ってもいけません。私たちは神様ではないのですから。
パウロはユダヤ人で、ユダヤ教の教えに熱心に従っていて、キリスト者を迫害していました。ただ、ユダヤ教の律法を頑張って守って生きていると、律法を守れない人たちを弱い人たちだと責めることになってしまいますし、強くて頑張れることが良いことなのだと考えることにもなってしまいます。パウロは恐らく、彼自身がこの生き方に何となく疑問を感じるようになっていたのではないでしょうか。自分の言動が律法に適っていないと満足できない。そして、律法に適っている限り自分は正しい。そんな生き方は、いつか行き詰ってしまうのではないか。
アナニアが手を置くと、
「たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。」
パウロが、律法に従って生きることよりももっと大切なことがあるということに気付いた瞬間でありました。律法を守ることができなくても、律法とは関係なく生きていても、どんな人でも神様の恵みを受けることができる。パウロはこの福音を受けて「見えるようになった」のでありました。律法から自由になり、自分こそが正しい判断をしているという「律法主義」からも自由になりましたし、役に立つことが良いことだという価値観からも自由になりました。
「起きて町に入れ。」
「起きて」という言葉は、「再び立ち上がって」、「復活して」とも訳せる言葉です。パウロはこの言葉を受けて立ち上がり、「見えるように」なっていきました。私たちも、自分という律法や価値観からの自由を、神様の豊かなお恵みとして受けて立ち上がるようにとの促しを受けておりました。
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