なく安心できました。でも、時が経つにつれて、やはり少ししんどくなってきました。確かに安心ではあったのですが、刺激がなかったのだと思います。私は誰かにちょっとだけでもリードしてほしかったのかも知れません。
水曜日に会った人は、暗いというより、どちらかというと明るい人でした。私にはない明るさがあって、でも、まぶしすぎることもなく、ちょうどいいように思われました。けれども、時が経つにつれて、しんどくなってきました。なんだかそつなく生きている感じがしたのだと思います。私の中にある無難に生きようとする思いが、その人の中に見えてしまったのかも知れません。
木曜日に現れた人は、おとなしそうな人でした。私にはないおとなしさが、かえって刺激的でした。ただ、時が経つにつれて、少ししんどくなってきました。その人のおとなしさが何か大切なものに重しをしているように感じたのだと思います。私の中の外に向かって働く力を閉じ込めていなくてはならないと、私が錯覚したからかも知れません。
金曜日には、とても疲れた人を見かけました。目をそむけたくなるほど苦しそうでもありました。それでも見ていると、やがて大声で叫んで息を引き取ったようでした。私だけでなく、多くの人がそのありさまを見ていました。死ぬほどの苦しみがあったのですから、自分にだけはそのようなことがないようにと願いました。自分には関係がないと思いたかったのかも知れません。
土曜日には、月曜日から金曜日まで会ったり見かけたりした人たちすべての有り方を合わせ持った私自身に気が付きました。そして、さまざまな面を持っている私自身が、月曜日から金曜日まで私が感じてきたことを、同じように人に感じさせているのだと思ってすごくしんどくなりました。自分のことしか考えたくなかったからかも知れません。
神様は天地を造られた時、日曜日から金曜日まで毎日何かを造り、その日造ったものを見て、「良し」とされました。そして6日目には人間を造り、すべてをご覧になりました。それらは極めて良かったようです。その後人間は罪を犯したり、複雑で目まぐるしく変わる思いを持つようになりました。神様はそのような不完全な人間をお造りになり、なぜ良しとされたのでしょうか。
日曜日に私が出会ったのは、金曜日に見かけた人でした。正確に言うと、金曜日に見かけた人がほかでもない私の前に現れたのでした。苦しんで死んでいった人が生きて動き、私に話しかけてきました。苦しみがまだいっぱい残っているようでしたが、その苦しみの中から私に声を掛けてきました。しんどい部分をいっぱい抱えた私に、その人は懸命に声を掛けているように感じます。その人の苦しみと私の苦しみが無関係でなかったからかも知れません。私はその声に思わず「いっしょに行く」と答えていました。自分の思いを引きずりながら、その人と歩く日がずっと続いています。
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