2016年12月25日  降誕日               主教 ステパノ 高地 敬
 
一人ぼっちじゃない

いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ(ルカ2:14)

 天使と天の大軍は神様を賛美して、このように言います。この世のものでない光景が天に広がり、それがどれくらい続いたか分かりませんが、天使たちは天に去ります。そして、この世の風景に戻りますが、「地には平和があるように」という言葉は地上に響き続けていています。

 ベトナム戦争は40年以上も前に終わりましたが、今も世界にさまざまな影を落としています。ベトナム戦争を教訓としているのか、とても疑わしいできごとが何度も起こり、また、戦争の帰還兵の中に精神的に病む人が多く現れ、社会問題ともなりました。
 うちの子どもたちがお世話になっていたお医者さんは、休みを取ってベトナムで医療活動をするような方で、本も何冊か書いておられます。その中に、「ベトナム戦争の頃、兵士が現地の女性を殺してイヤリングなどを奪い、アメリカのガールフレンドに贈るなどということがあった」と書かれていました。戦争だけでも悲惨なことなのに、聞かなければよかったとさえ思える話です。みんな普通じゃなくなる。世の中はそんな悲惨で満ちあふれていて、しかも私たちも含め、誰の心の中にもそんな暗い部分が多かれ少なかれあるようです。じゃあどうすればいいのか。悲惨な出来事をどのように受け止め、平和を作り出していけるのか。
 マタイによる福音書の降誕物語は、とても暗い印象があります。ヨセフはマリアと別れようと決断します。これは自分のためと言うより、マリアのためであったでしょう。本当は別れたくなかった。どうしたらいいか答えが出ないけれども、とにかく彼女のために良かれと思って決断します。でも、本当にそれで良かったのか、決断した後も迷い続けていたのではないかと思います。心の中は全然平和じゃなかったし、一人で迷い続けている。神様はそれに対して「恐れるな」と言われます。「マリアを迎えよ」とも言われますが、自分の決断とは全く反対です。それが答えなのでしょうか。
 最近読んだ小説の結末の部分で物理学者である主人公が、ある少年に語りかけていました。
 「どんな問題にも答えは必ずある。だけどそれをすぐに導き出せるとは限らない。人生においてもそうだ。今すぐには答えを出せない問題なんて、これから先、いくつも現れるだろう。そのたびに悩むことには価値がある。しかし焦る必要はない。答えを出すためには、自分自身の成長が求められている場合も少なくない。だから人間は学び、努力し、自分を磨かなきゃいけないんだ。今回のことで君が何らかの答えを出せる日まで、私は君と同じ問題を抱え、悩み続けよう。君は一人ぼっちじゃない。」このように言われ、少年は、こんな言葉をこそ掛けてほしかったのだと気が付いた、と続いていました。
 私たちが、そしてこの社会が神様からかけていただいている言葉もこのようなものでありました。答えの出ない問題の前で立ちすくみ、頭を抱えるような時、「地には平和があるように」という言葉が響いておりました。社会も心の中も平和ではないから、「平和があるように。」平和ではないけれども、私たちは一人ぼっちでもない。
 平和ではない状況は2千年前から変わりありません。でも、2千年前に大きく変わったことが確かにありました。