2015年4月5日  復活日               主教 ステパノ 高地 敬
 
変われない、変わりたい

 「地下のジャズ喫茶、変われないぼくたちがいた。悪い夢のように時がなぜてゆく。」
 もう40年ほど前の歌の歌詞です。もっと明るく素直になればいいのに、いつも何か反抗的でつっぱっていて、世の中の不条理はすべて不当だと心の中で叫んでいる。大人の社会は偽りに満ちていて、不正なことが当然のように行われ糺されない。社会を変えようとしたほんの少し上の世代の人たちにじかに接することがあっても、結局は今の文化や環境の中に埋没してうごめいている。ただ、一緒に居ることのできる友達がいてほしい。そんなことを勝手に感じ取っていた歌でした。

 「私は何もできない。動けなかった。私の歌は、周囲を見ていた自分の意識の投影なんです。人も風景もどんどん変わっていく。だけど自分だけが同じ所にいるような気がして、、。」
 このシンガーソングライターのたった8年間の活動の中で、カトリックの東京カテドラルでライブが一度行われたようです。何か思うところがあったのでしょうか。本名は明かさないし、素顔も見せない。引退を宣言することもなく活動を停止する。その時その時の感覚的なものが歌われていて、不思議な、でも、自分の中にも必ずあるような世界を感じます。
 このままではいけないとは思う。でも、変わるのが怖いし、変わりようがないし、どう変わればいいのかも分からない。こんな自分にだれか何か言ってほしい。けれども、実際に何か言われると、とてもしんどいことがある。今から振り返れば、これは他でもない自分のことではなかったかと思わされます。
 イエス様の弟子とか、神様の子になるには、自分に良くない部分があってはならないと考えていることが私たちにはとても多いのだと思います。でも、正に「変われないぼくたちがいた。」これまでずっと、そして今もこれからも多分そんなに大きく自分が変わることはないでしょうし、自分の意志で自分を変えるのはもっと難しいでしょう。神様をいつも愛し、誰でも同じように愛する。こんなことが神様から求められていますが、そんな在り方ができて初めてイエス様に従っていけるとすると、私たちには全く無理なのだと思います。いつまでたってもイエス様に呼んでいただけない。逆にもしも私が自分の力でちゃんと「変わる」ことができるのであれば、神様とは無関係に生きていけるでしょう。実際にはそれもあり得ません。
 どうしようもない自分をどうにかできた時に初めて大切な人に従っていけるのでは決してなくて、どうしようもない自分を引きずりながらイエス様に従っていく。そうさせていただける。子どもの頃から親しんでいたイエス様は、なぜかどこか道徳的で、私はずっとそれを福音だと思い込んでいたようです。だから、どことなく気持ちがしんどかったのでしょう。やっと20代後半になって私はイエス様に出会い直したのだと思います。こんな私に「従ってきなさい」とイエス様は声を掛けてくださっている。ガリラヤ湖畔で弟子たちを招かれたように、道徳も何も言わず、まずそのように言ってくださる。その声にようやく気が付いた。このことを私たちは新生とか復活とか言うのかも知れません。
 洗礼を受けて神の子とされていく決心をしても、あとからあとから私たちは罪を犯し、神様を忘れ、イエス様を忘れます。イエス様が、「あなた方の罪は赦された」と言われるのは、「イエス様の後ろからついていくことが許された」という意味で受け取ってもいいのだと思います。そうする道しか私にはありませんから。