2014年12月25日  降誕日               主教 ステパノ 高地 敬
 
覚えていたい

 夢から覚めた時、どんな夢を見たか懸命に思い出そうとするのですが、多くの場合、はっきりとは思いだせなくなっています。そしてもっと現実に戻ると、夢は消えてなくなります。でも、夢の内容を覚えていたい。
 「このストーブ、におい、きつなってきたなぁ。」「いつ買うたんやった?」「(結婚して)初めて買うたやつやし、26年になるなぁ。」「このストーブは父さんの部屋にあって、子どもがやけどしたファンヒーターが台所にあったんやわ。何か、あんな頃があったて、夢みたいやなぁ。」

 今の生活からすると、そんな前のことは現実にあったことかと不思議に思います。今よりはちょっとだけ幸せだったような気もして懐かしくも感じます。あの頃には二度と戻れませんし、あの頃の幸せを改めて味わうこともできません。ずいぶん前の普通の生活の中にあった幸せを、今さらながらほんの一瞬、感じることがあるようです。
 最近のことは「できごと」として現実にあって、その時の思いもすぐによみがえりますが、もう少し前のことは「覚えていること」になって、うれしかったことやつらかったことが「あった」ということは思い出せます。そしてもっと前のことになるとだんだん記憶が薄れてきて、「夢」のようになってしまいます。でも、やっぱり何かの拍子にその時の感覚がほんの少しよみがえり、何とも言えない懐かしさがこみあげます。あの頃に戻ることができれば、平凡な毎日や、少ししんどい毎日の中で聞いたあの人の言葉をもう少し大切にすることができたかも知れない。あの人の表情をもっと見ておくことができたかも知れない。でも時間はいやでも過ぎていき、私たちは一瞬一瞬をすべて失っていくもののようです。
 2000年前、弟子たちにとっては、イエス様と過ごしたかけがえのない日々の記憶が深く心に留まっていたでしょう。「忘れたくない。忘れてはいけない。あんなに私のことを大事に思ってくれた人のことを、あの人の声も表情も決して忘れてはならない。私自身が感じていたものや、あの日々を失くしてしまってはならない。私たちがあの人のことを覚えているのは、『私の記念として』と言われたから覚えているというより、あの人を忘れたくないからなのだ」と弟子たちは真剣に考え話し合ったのだと思います。
そんな弟子たちが、イエス様から聞いたことを思いめぐらし、救い主はこうしてお生まれになったのだと、ご降誕の物語を伝えています。
 「イエス様を裏切った人々を赦そうとされた方は、このように人知れず、でも、祝福されてこの世に生まれられた。活動を初めてすぐに捕まり、殺された。それほどまで人を愛し、人のために命をささげた。そんな人生の始まり、誕生だからこそ、多くの人には知られなくても、神様からの祝福に豊かに満たされていた。
 自分を見捨てた私たちを赦そうとしてくださった、あの人を決して忘れてはならない。あの人と過ごした何でもない日常の中にあった豊かさが、今の私たちを生かしているのだから。」
 過ぎ去ったことを悔やまずにはいられない人にも、あまりいいことがない毎日を送っている人にも、誰かと関わりを持っている今が、ほんの少しいい思い出になる日がいつか来るのかも知れません。大切な誰かのことも、イエス様のことも、ずっとずっと覚えていたい。あの日々の関わりが今の私を生かし、希望を失わせないのだから。そして今日の関わりが、明日の私を生かすのだから。