「この大空に翼を広げ飛んで行きたいよ。悲しみのない自由な空へ翼はためかせ行きたい。」この曲を選んだクラスメイトは、この世界が悲しみに満ちていることに既に気がついていたのかも知れません。悲しみ多いこの世界から抜け出したい。翼のように私自身を解放し変えていくものがほしい。
同じ「翼」という言葉が含まれる歌に、「まぼろしの翼とともに」という別のグループの歌があります。やはり40年ほど前の歌で、特攻隊で死んでいった男性とその恋人の悲しい歌でした。「もういやだ、こんな世界は、もう二度と見たくない」の歌詞で終わっています。「自由な空へ行きたい」も「もう二度と見たくない」も、この世界に大きな疑問を投げかけているという意味で同じです。
飛んでいきたいほどに、二度と見たくないほどに、この世界は悲しみに満ちている。けれども、「自由な空へ翼はためかせ行きたい」と願っても背中に羽根などはえないし、二度と見たくないと思っても悲しいことが次々と起こってくるのを見なければならないというのが現実です。この現実を私たちはどのように乗り切っているのでしょうか。 現実を一度知ってしまったら知らないで済ますことはできません。その上に、抜け出したい、見ないでいたいと願っている限り、この悲しい現実を乗り切ることが難しいことも私たちはよく知っています。
だから、そんな世界に救い主が来てくださった。ただしそれは、そこから抜け出す力を私たちに与えるためでもなく、見たくないような世界を一瞬にしてすばらしい世界に変えるためでもありませんでした。 悲しみに満ちた世界だからこそ、その中に救い主が来てくださる。ほかの世界に抜け出すこともできないし、世界を大きく変えることもできない私たちの中にいるために救い主が来てくださった。
この世界にいつづけるにはつらいことが多すぎるかも知れません。うれしいことほとんどないし、希望なんか初めからどこにもなかったように思う時もたくさんあるかも知れません。そんな私たちは神さまにとってどうでもいい存在ではないかと思えることもあります。でも、決してそうではなかったことが、クリスマスの出来事を通して私たちに知らされました。こんなに悲しい世界も私たちも、神様にとってどうでもいいようなちっぽけなものではなくて、本当に大切なもの、かけがえのないものでありました。
神の子イエス様が私たちのためにいてくださることを知る者は、背中に白い翼が生えたように、ほんの少し心を軽くしてきたのではないでしょうか。2000年間変わらず、悲しい世界の中でも時には心からの笑顔を持って、互いを気遣ってきたのではないでしょうか。