ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。(マルコ14:71)
イエス様が捕まった後、ペトロは自分のことが問われると必死になって「知らない」と言いました。つまり、「私には関係ない。そんな罪人とは知り合いでもない。だから私には罪はない」と言い逃れしているようです。それでいて、イエス様がどのようになっていくか気になって仕方がありません。本当はイエス様との元の生活が取り戻せたらと願っているのに、身に降りかかる危険は何としても避けないといけない。そして心のどこかでは、「世を裁く方が逆に裁かれて死んでいこうとしている。結局私を救う人ではなかった。だから、そんな人は知らないし、関係がない」と考えて、心が張り裂けそうになりながらも、自分を納得させようとしているようにも思えます。
このようなことは、イエス様に対するペトロの思いだけでなく、私たちの日常の中のさまざまな思いの中にもたくさんあります。「この人は私にとって役に立たないばかりか、私の足を引っ張っている。そう言えば、今までこの人が言っていたことにも本当は私は賛成ではなかったんだし。もーっ知らん。こんな迷惑な人のことは知らないし、関わりたくもない。」仲良くやっていきたいと願う気持ちが私たちの心の奥底のどこかにあっても、口を突いて出てくるのは、お互いの関係を切るための言葉になってしまいます。
そして後になって落ち着いて考えると、「あんなこと、言うんじゃなかった」ということも少なくありません。
ペトロは、「あなたは三度私を知らないというだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣き出した。(マルコ14:72)
ペトロがご自分のことを知らないというのをイエス様は前からご存じでした。それでいて、関係がないと言うはずのペトロとの関係を自分から切ろうとはイエス様はなさらず、前からペトロのことを赦しておられたのでした。そのことにペトロはようやく気が付きました。
「知らない」と言って自分から関係を切ったつもりでも、神様は、「あなたのことは前からよく知っている」と言いつつ、切れたところをつなぎ直して下さっていた。そのことに気付くとき、私たちにも復活の朝が訪れます。
さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。」(マルコ16:7)