2011年12月25日  降誕日               主教 ステパノ 高地 敬
 
ユダのためのクリスマス―消える光の誕生―

そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。この香油は三百デナリオンで売って、貧しい人々に施すことができたのに。」(マルコ14:4,5)

 イエス様の一行のうち、信頼されて会計を預かっていたイスカリオテのユダも、このような一人だったに違いありません。いくらイエス様の葬りの準備の香油だと言っても、今日食べるものがない人たちが周りにたくさんいるのに、「なぜ無駄使いするのか」、ユダには分かりませんでした。

 ユダは複雑な気持ちをいつも抱えている人だったのだと思います。そのため、イエス様に従って歩いていても、いろんなことを考えてしまいます。「イエス様は、これまでたくさんの病人をいやしたり、死人を生き返らせたりして、これこそ神様のところから来られて世を裁く方だとずっと信じてきたけれど、『自分はエルサレムで捕まって殺される』とこの間から言い始められた。どうしてこんなに簡単にあきらめてしまうのか。イエス様に大きな期待を抱いてきたのに、その期待が裏切られてしまうのか。本当に信頼してついてきて、ここで別れてしまったら、今までの自分は何だったのか。」ユダはイエス様に裏切られたと感じ、失望してイエス様を「お金で」売り渡すことになってしまったのだと思います。
 イエス様を裏切る役割を負ったユダ。イエス様はその裏切りを知っておられて、するがままにしておかれたことがとても不思議に思えます。なぜ、ユダの裏切りをやめさせようとされなかったのか。十字架という定められた使命をイエス様が果たされる、ユダはその準備をしたことになりますが、そのためにユダ一人が悪者になっているようです。
 神様は十字架上のイエス様の姿を通して、「命を捨てる。自らが消え去っていく」という神様の愛のあり方を示されました。私たちは普段から、たくさんある道の内どれが正しい道なのか懸命に求めようとします。けれども、神様の愛のこのようなあり方を知らずに自分なりの正しさを求めようとすると、結果として神様の愛を受けずに自分の力を過信して、分かりやすい結果だけ求めてしまうことになります。「命を捨て、自らが消え去って」しまうと、いいこともできなくなるではないかとユダは考えたのではないでしょうか。この意味で、ユダは私たち人間すべての代表でありました。
 「生まれてこなかった方がよかった(マルコ14:21)」ようなユダでありましたが、そのユダにも救い主は生まれられ、しかも直接出会って、ずっと一緒に歩かれました。自分が生きていることの証をいつも求めようとする私たち、そして、自らが消えてしまうことをとても恐れる私たち。そのような私たちを愛しているからこそ救い主は、「命を捨て、自らがまず消え去られ」ました。
 神様の輝きがこの世に現されたクリスマス。救い主は2000年前に生まれられ、また今も私たちの心の中に、「みんなの犠牲となって消える光」として生まれてくださっておりました。