ただ、マリアには出産までヨセフとの間に葛藤があり、ヨセフが自分のことを理解し受け入れてくれているのか、出産後の今もはっきりしない、こんな状態でこれからやっていけるのか。まだ14か15才くらいのとても若いマリアにとって、不安な日が続いていたし、その後もずっと続いたのだと思います。
それまでの複雑な事情やその後の様々な出来事のことを思い合わせると、そんなに単純にマリアのことを強い信仰の持ち主として理想化できるのかと考えてしまいます。むしろ「思い巡らす」というのは、とても重い気持の中で苦しんでいる状態なのではないでしょうか。人生をとても辛く感じて思いつめているのではないでしょうか。
「思い巡らす」とは、模範的な人物の理想的な行動というより、私たち自身の悩みながらの人生を表しているものではないかと思うのです。多くの疑問や不安について、ほとんどの場合答えの出せない人生の中で、いつも「迷って」いる私たちの一人として、あるいはもっともっと辛い状況の人としてマリアは聖書の中で描かれています。
マリアはそれでも長い年月の間「思い巡らし」続け、すべてが神様のみ手の中にあることを受け止めないといけないと、ある時思い当たったのではないかと思います。けれどもそんな時に彼女が出会ったのは、大切な息子の十字架の上の痛ましい姿でありました。一度は落ち着いた思いが再び一気に噴き出して、疑問と不安、そして、迷いが猛烈な勢いで彼女を襲います。自分の人生はこれで良かったのか、神様のみ手は、結局は人間の方には向けられていなかったのではないか。
弟子たちも同じような迷いの中で生きてきて、イエス様に従っている間も迷いの気持ちは消えなかったのだと思います。そんな彼らに復活したイエス様が現れます。でも、せっかく再び出会ってくださったにもかかわらず、彼らのそれまでの疑問にストレートに答えられるということはありませんでした。答える代りに、イエス様は彼らを祝福されます。「あなた方に平和があるように。」言い換えれば、「迷ってばかりのあなた方だけれど、きっとやっていける。迷っているあなた方を私が支えるから、確かにやっていける。安心して行きなさい。」救い主がこの世に来られても、人々の生活はその前後でほとんど変わりませんでした。ただ、救い主が来られたことを知った人々や今の私たちの中には、行く道の闇をほんの少し照らす新しい小さなともしびが確かにともったのでした。