2009年12月25日  降誕日               主教 ステパノ 高地 敬
 
神様が出会って下さる
 もう30年も前になりますが、半年ほど外国をうろうろと旅行したことがあります。とはいっても、リュックを背負っての貧乏旅行で、安い宿が満員なので、やむなく野宿したことが何回かありました。毎日見たこともない珍しい景色や物を見て、初めての物を食べて、同じような旅行をしている人と出会って、楽しいことがあり、しんどいことがあり、別れの寂しさを味わったりしました。最後は少し体調が悪くなったので帰ることにしましたが、本当にたくさんのことを経験しました。

 その頃は、「明日はきっと何か面白いことがあるに違いない」と思って毎日移動していたのだと思います。今日よりも何か面白いうきうきするようなことがあるに違いないと期待して移動を続ける。けれども実際には一日しんどいだけだったり、人に裏切られて悲しい思いをすることの方が多かったのかも知れません。
 イエス様の頃の羊飼いや占星術の学者たちも、私のようないい加減な気持ちではなかったにしろ、同じように何かを期待して旅をしたり、救い主を訪ね求めたのだと思います。自分のような汚れた心を持つ人間でも、少しでも清くあれば見つけることができるかもしれない。今まで経験したことのないようなすばらしいものと出会いたい。
 私の場合、旅行は終わっても、毎日の生活の中で似たような旅を続けているように思います。自分にとって大切だと言えるものを捜し求める。言い換えれば、神様を探し求める。そのためにどれほどの道のりを旅してきたでしょうか。神様と何度も出会い直し、また神様の後ろ姿が見えなくなって探し回る。「心の清い人たちは、幸いである。その人たちは神を見る。」だから、自分自身が清くならなければとあせりながら、やみくもに気の向いた方向に進んでいただけなのかも知れません。けれども、清くないからこそ、自分だけで全てが事足りるのではないからこそ、神様を探し求めていたのではないでしょうか。
「み子イエス・キリストはわたしたちを顧み、謙遜なみ姿でこの世に来られました(降臨節第一主日特祷)。」「謙遜なみ姿」というのは、赤ちゃんの清純さや全てを人にゆだねる謙虚さというようなものではないのだと思います。私たちがすぐにイメージすることのできるような「謙遜さ」ではなくて、だからこそ私たちがすぐに見失って、何度も探し求めなければならないようなもの。
 「あなた方はこの世では悩み苦しみが多く、何か大切なものに出会いたいと願っている。清い心を持っていない自分は神様に出会うことはできないのではないかとためらっている。私はそんなあなた方のために謙遜な姿でこの世に来た。つまり、あなた方が探し求め、少しでも私に近づこうとしているよりも先に、私からあなた方に今近づこうとしている。謙遜な者として、『あなた方のために死ぬために生まれる』者としてこの世に来た。」この謙遜な神様に出会おうとすること自体が、神様の清さに私たちがあずかることではなかったでしょうか。