継ぎ目なしの直線の線路を走る電車はほとんど揺れがなく、止まっているかのようです。
私たちの人生の道のりも、できるだけ揺れないように自分なりに工夫します。仕事も生活も順調にいくように整えようとしますし、分かれ道でも迷わないように、自分の考え方をしっかり持とうとします。そのように日ごろから心がけていると、自分の道を真っ直ぐに走っていけるはずですが、みなさんはいかがでしょうか。
数々の記録を達成し、安打製造機と呼ばれるイチローは、先日、12打席連続ヒットなしの後に決勝戦で決勝打を放ちましたが、ある選手から「打てないイチローさんが良かった」というメールをもらって、とてもうれしかったと話していました。決勝打を打ったことより、なかなか打てなくて悩んでいる自分が、人に支えられていることが分かったとのことでした。
揺れ動かないで確固たる道を進み、明瞭な意見を持つことはいいことだと誰もが考えるのですが、むしろそれは、神様や他の人からの支えを感じることができなくなるとても危険な時ではないでしょうか。それに加えて、他の人の考えや思いを受け止めることができず、自分一人で生きていけると錯覚してしまう時なのかも知れません。
一人で何の憂いもなく順調に走っていくと、時には動いていることを忘れたり、止まったかのようになってしまいます。揺れ動いていないことは、生きていないことだと私は思います。人生の道のりは山あり谷あり、カーブも多く、一定のスピードで走りきることはできません。振り子式にしてスピードを上げようとしてかえって揺れが大きくなってしまうこともあります。前に進んでいるときには、ほんのわずかであっても揺れるのが当たり前なのです。
神様はイエス様を通して、人間が揺れ動いて生きていることに徹底的に付き合おうとされます。このことを知る時こそ、私たちにとっての日々のよみがえりの時なのではないでしょうか。自分に支えが最も必要な時、支える方が自分にあることを知らなければ、よみがえりはありません。そのためには、支えが必要な揺れ動く自分であることをまず知ることができればと思います。
神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。(マタイ22:32)