2007年12月25日  降誕日               主教 ステパノ 高地 敬
 
愛することが始まる
 『聖なる夜に』という絵本があります。教会に飾られていたクリブの人形たちがかわいそうなおばあさんを助けるお話です。その本を見ながら、ぼんやり考えていました。「このお話の中の奇跡のように、クリスマスごとに神さまが何か一つ願いをかなえてくださるなら、何をお願いしようか。」
  世界が平和になるように。飢えで苦しむ人がいなくなるように。貧富の差がなくなるように。環境問題を真剣に考えることができるように。悲しい出来事がなくなるように。家族の病気が治るように。嫌いな人も赦したり愛することができるように。福音に

ふれる機会が多くの人に与えられ、教会の働きに多くの人が関われるように。一人ひとりが負っている重荷が少しでも軽くなるように。
 奇跡でも起こらない限り、これらの願いは実現しないのではないかと思います。「神様、あなたは私のこれらの願いに答えて、奇跡を起こしてくださるでしょうか。」神様は私たちのお祈りや質問に黙ったままのようですが、ずいぶん前に一つの答を出してくださいました。「あなた方の願いに、私はこの形で答える。」私たちのどのような願いにも、神様はその答としてイエス様を差し出されます。
 けれども私たちには何故イエス様が答なのか分かりません。この答から、私たちの願いがすぐに実現するとも思えません。何の答えにもなっていないじゃないか。答えとしては弱すぎるじゃないか。全能の神様なら、誰にでも分かる形で答えられるはずじゃないか。
 神様の子の誕生は、学者や、羊飼いなどごく限られた人にしか知られませんでした。また、赤ん坊の時だけでなく、大人になってからも、一時期華やかに見える時もあったけれども、33歳くらいの若さで汚名を着せられて死刑になってしまった。この人が、今の私の望みの実現とどんな関係があるのか分かりません。
 そのような私たちの思いに対して、クリスマスには赤ん坊のイエス様が私たちに問いかけられます。「今の私を、やがて偉大なことをする者としてあなた方は敬い、頼ろうとするのか。それとも、人に頼らないと生きていけない赤ん坊という今の私自身を見ているのか。」もし私たちが、偉くなるはずのイエス様しか受け入れられないなら、イエス様が何故答なのか分からないままですが、脆さを持った神の子イエス様を受け入れるとき、私たちのさまざまな願いに神様から答が与えられ始めるのではないでしょうか。
 どのような願いにも、イエス様が答。人を愛することが神様から始まり、私たちに受け継がれ、それによってさまざまな願いが実現していく。それは、ご降誕の奇跡が私たち自身に起こる奇跡となるときでもありました。