2006年12月25日  降誕日               主教 ステパノ 高地 敬
 
思いがけない恵みを
 
 11月にミャンマーに行かせていただきました。大岡義明司祭がミャンマー聖公会ミッチーナー教区のルウィン主教と以前から交流を持ってこられ、その関係で一人の方が京都聖ヨハネ教会の支援で京都に留学しておられます。昨年ルウィン主教が京都に来られ、熱心にお招きくださいました。今回はウイリアムス神学館の吉田館長や神学生9人全員が、海外研修として同行しました。ミッチーナーでは多くの人が何日も割いて私たちを大歓迎してくださいました。

 十数年前にインドネシアに研修で行った時に、二人のミャンマー人に出会いました。一人は聖公会の司祭のお連れ合いで、とても明るい方でミャンマーの聖歌を歌ってくださいました。もう一人はバプテスト教会の牧師で、礼拝の時の小さな説教で、「救い主は、貧しい家畜小屋に生まれてくださった。神様は愛です」と、英語でとつとつと語ってくださいました。二人とも出国の際に持ち出せるドルがごくわずかなので苦労したそうです。この二人の素朴な笑顔がすてきで、いつかミャンマーに行ってみたいと思っておりました。
 ミャンマーでは時間がゆっくりと流れているようでした。どこでも人が道ばたに座っていたり、屋台でお茶を飲んだり簡単な食事をしたりしていました。仕事が少ないせいでもあると思いますが、急いで歩く人はほとんどなく、みんなが何かをひたすら待っている感じがしました。
 それに比べて日ごろの自分の生活はと言うと、絶えず何かに追われながら生きていて、何かを待っているような心の余裕が全くなく、効率的でないことには我慢できなくなっています。そして、誰に対しても、神さまにも、「あなたをお泊めする場所がありませんから」と口癖のように言ったり、目で伝えたりしています。
 そんな生活の中で、とてもしんどい一日がやっと終わって、夜、テレビから偶然聞こえてくるアメージング・グレースに涙が止まらないということもあります。
「思いがけない恵み/なんと優しい調べ/私のようなつまらない者を救ってくださった/私は、失われていたけれども、今見いだされた/私は今、その恵みに気がついた。(私訳)」
 神様のことを忘れているこんな自分に、神様が手を差し伸べて待っていてくださる。そのことに気がつくとき、神様の方を振り返りつつ、神さまや人を迎え入れる心の余裕ができるのでしょう。そして、ミャンマーの人たちのように、ゆっくり流れる時間に身を任せる。今年のクリスマスには、そんなお恵みをいただければと思います。