聖書の中で夜は、ヨセフが妻子を連れて逃げる時(マタイ2章)、泥棒がやってくる時(マタイ24章)、ニコデモが人目を忍んでイエスさまのところに来る時(ヨハネ2章)です。また、最後の晩餐の時、イスカリオテのユダは、イエスさまからパンを受け取ると、夜の闇の中に消えていきました(ヨハネ13章)。夜は、昼間の明るみの中ではできないことをする時のようです。
私たちにとっても、夜は不安の時です。心配事があって眠れない夜、豆電球の薄明かりの中で、あれこれとぼんやり考え込むことがあります。心の中のいろんな思いがわいて来て、暗い部分をたくさん抱えたもう一人の自分を思い出しますし、自分に力がないことを思い知ることもあります。そんな暗い夜に誰かそばにいてくれたらと願うのですが、自分の気持ちに気がついてくれる人がそばにいてくれるのはまれなことです。
神さまはまず「光あれ」と言って光を創られ、光と闇を分けられました。けれども私たち人間は、その光を神さまからの大切な贈り物としてうまく受け取ることができませんでした。その光で心の中を輝かせることができず、また、自分の力で心の中の暗闇を明るくすることもできませんでした。神さまは、そんな私たち人間に、もう一度光を贈ろうと考えてくださいました。それがクリスマスの出来事でした。クリスマスは神さまが私たちに小さな小さなイエスさまという光をくださった日です。イエスさまが生まれられた家畜小屋の中で小さな光が輝き出し、三十数年後に一度消えてしまいますが、今度は私たち一人一人の心の暗闇にこの光が差し込みます。
これは、昼間の太陽のようにすべてを明るみに出してしまうような光ではなく、かと言って、すぐに消えるようなともし火でもありません。つらい夜に自分と一緒にいてくれる人の小さな決して消えない光。そんな大切な光が、私たちの心の中でほのかに輝いておりました。
「起きよ、光を放て。・・・主があなたのとこしえの光となり、あなたの神があなたの輝きとなられる。」
(イザヤ60章)