2005年5月15日  聖霊降臨日                    主教 ステパノ 高地 敬
 
 2〜3日前、妻と話していて、いつも言われることだが「決めつけた言い方したらあかんで」とまたまた言われました。同じことを私自身が妻に何度も言ったと思いますし、他の人にも「そんなに決めつけて言わなくてもいいんじゃないか」という趣旨のことを何度も言ってきました。その同じ言葉が自分にも向けられる。皆さんも経験があるのではないでしょうか。何か一所懸命話すほど勝手に決めつけていることがとても多いようです。はたから見ると他の見方や考え方があるのにと思うのですが、私たちはいつもこうやって生きているのでしょう。決めつけないでいろんな見方をすれば、もっと楽に生きることができるはずなのですが。

 今日、堅信式がこれからあります。教会の信仰を堅く保って生きていく、その再スタートをするときです。私が生きていく道はこれだとしっかりと心に決める。それが信仰なのですが、誤解を恐れず言わせていただくと、ある意味でこれは決めつけた言い方です。だから信仰なんかどうでもいいと言うことを申し上げようとしているのではもちろんありません。ただ、自分の信仰をこれ、と決めつけることは、何か決めつけて凝り固まるということと共通したところがあるように思います。では私たちの信仰は凝り固まったものなのでしょうか。皆さんはどのように考えられるでしょう。
 信仰はある意味で凝り固まったものだとしても、信仰としている内容は正にその逆なのだと思います。聖霊降臨日は弟子たちに聖霊が与えられた記念の日です。使徒言行録第2章では、弟子たちは聖霊を受けて語り出しています。おびえていた弟子たちが外に出ていって語り出す。ここから私たちが思い描くのは、「弟子たちは今までと違って強くりりしくキリストの福音を宣べ伝え始めました。聖霊の力でみんなしっかりと立ち上がり、ここから教会が始まって行きました。だから私たちも聖霊の力を受けて、少々の困難などものとはせずにしっかりとやっていきましょう」ということです。けれども聖霊というのはそんなものだったでしょうか。もしそうだとしたら、聖霊を受けたときから強くなって何の苦しみも不幸もないはずです。でも、そんなことは人間にはあり得ません。それは信仰が足りないからだと考えられるかも知れませんが、我々が信仰している内容はむしろ逆のことではなかったかと思うのです。強くりりしくなるというよりも、弱さが単なる弱さではなくなる。それが私たちの信仰だったのではないでしょうか。見方を大きく変えることができないでしょうか。
 ヨハネによる福音書第20章22節ではイエス様が弟子たちに息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい」と言われます。聖霊とは、語源からも息とか風のようなものだと言われます。風は時により人により感じ方が違います。涼しく感じる時。蒸し暑く感じる時。寒く感じる時。暖かく感じる時。聖霊を炎のような熱いものとしてだけ感じる必要はどこにもないように思います。むしろ風の気ままさに人間の気ままさが加えられ、私たちには自由にゆるやかにゆったりと考えることが許されているのではないでしょうか。私たちは、この道でやって行こうと心に堅く決めて教会の信仰の道に入りました。ただその信仰している内容そのものから、我々はいつも揺り動かされ続けます。昨日の感じ方だけではないはずでしょう?今の感じ方だけではないはずでしょう?もっともっと豊かに神様の恵みを感じ取っていけるはずでしょう?
 聖霊の導く先にはイエス様がおられます。少し語弊のある言い方かも知れませんが、イエス様ご自身が当時の凝り固まった社会から脱け出そうとし、凝り固まった考え方から脱け出そうとして捕まり死刑になって、この古い世界からぬけ出られました。そしてその上で私たちに呼びかけてくださいます。「聖霊の働きによってあなたがたは私の方に導かれ、古い世界からぬけ出て行きましょう。決めつけ凝り固まった古い自分から、また、昨日のあなたからぬけ出て、今日の新しい生命を輝かせましょう。弱さも私が伴う限り単なる弱さではないことを知っているでしょう。きっとやっていけるよ。」こんなふうにイエス様は呼びかけて下さっています。この呼びかけを受け、イエス様へと導かれるために聖霊のより豊かな働きを求めたいと思います。

(奈良基督教会にて)