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管区事務所だより
2005年9月25日 第199号
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□60年目の広島 □長崎原爆の日記念礼拝
□日本聖公会人権セミナー開催 □図書紹介 『ウォーラー司祭 その生涯と家庭』 


■60年目の広島
広島被爆60年神戸教区礼拝
実行委員長 司祭 小林 尚明

 「小林先生、沖縄まで来て、ご苦労なことやなあ。沖縄まで来なくても広島でやることがあるんじゃないか」。
 昨年の沖縄週間に、沖縄研修に参加しました。その時、友人の沖縄教区のU司祭から言われた言葉です。広島の教会で働いて7年。広島で「平和」を考えなければ、という思いを教区に報告しますと、すぐに教区主教が指示を出されました。そして実行委員会が組織され、今回の教区礼拝を計画する事になりました。委員会でまず考えられたことは、その目的でした。何のためにこの教区礼拝を行うのか。委員会として、三つの目的を掲げました。
 @60年前の広島で、何が起こったのかを学ぶ。
 Aキリストによる平和が現在の私たちにとって、どのような意味を持つかを学ぶ。
 B原爆によって亡くなられた人たちの死を悼み、私たちが主の平和の器として用いられるように祈りを献げる。
というものでした。

 委員会では、@のためにオプションとして平和公園の見学を広島ピースボランティアの方の案内で計画しました。また広島復活教会の信徒の方二名の被爆証言を聞きました。そしてAのために前広島女学院中高校長黒瀬真一郎先生からご自身の行われてきた平和のための活動、「折鶴の会」の世話人河本一郎さんの紹介などをとおして、現代において主の平和のための具体的な働きについて学びました。そしてBのために教区礼拝として聖餐式が教区主教司式で行われました。式の中で、原爆によって亡くなられた方々、今なお後遺症で苦しんでいる広島、長崎の方々のために祈りが献げられました。そして教区主教から平和メッセージとして以下の言葉が語られました。「キリスト者は、平和を作り出すためには、まず祈らなければならない。しかし、単に平和が来ますように、争いがやみますようにと祈るだけでは不十分である。争いのもととなる私たちの傲慢、偏見、差別、ねたみ、憎しみを抱くことによってどれだけ自分自身も傷つき他者も傷つけられたかという、人間の真の罪深さを悔いること、この姿勢こそ平和への第一歩となる。また私たちはそれぞれ異なった人生観、価値観、あるいは国家観を持っている。しかし、キリストにおいて一つになれる。そして、私たちはキリストの平和を作り出す器として自分自身を用いるようにとキリストから命じられている」。

 聖餐式の分餐は、大阪教区宇野首座主教、沖縄教区谷主教、九州教区五十嵐主教、京都教区高地主教という豪華メンバーでした。式後ある信徒の方からEメールを頂きました。「今回の礼拝・行事、参加された方々も深い感銘を受けられ、そして原爆の恐ろしさを再認識され平和の尊さを心に秘めてそれぞれの教会へ帰られたと思います。今回の教区礼拝の企画運営は素晴らしかったと感心しております。」と。

 当日の信施金181,488円は、在広韓国・朝鮮人被爆者救援会に献金されました。出席者220名。
 今、行事を終えて、委員会が掲げた三つの目的は十分達成されたものと考えています。ただ「主の平和」という言葉を聞くたび、もしこの世界に「主の平和」が実現したという場合、勿論戦争がないことが前提になりますが、御心(マタイ18:14)が行われ、み国(マタイ20:1?)が実現している、ということ以外にあり得ないと思っています。そのために主の祈りを祈りつつ、広島で出来ることを少しずつでも続けていきたいと思っています。



■長崎原爆の日記念礼拝

九州教区 福岡教会 濱生 牧恵
 今年も、8月9日に長崎聖三一教会で「長崎原爆記念礼拝」が行なわれ、同教会メンバー他、教区内の5教会からの参列者が加わり、約40名が集った。私もこの礼拝に参加することができた。

 礼拝では、原爆投下時の11時02分の少し前から黙祷を捧げた。目を閉じると、車・人の会話・セミの鳴き声など様々な音が聞こえてくる。一人ひとりの生活を思い描いた時、60年前もここに生活があったことを感じた。サイレンが聞こえた瞬間、自分の頭の上で原爆が炸裂したように思えた。一人ひとりの生活の上に原爆が落とされたのである。

 祈りの中で、被爆のためになくなられた信徒の方々の名前が読み上げられた。一人ひとりの名前をゆっくりと聞いていくと、原子爆弾の下に人々の暮らしがあったことを深く感じた。

 礼拝後、ホールで分かち合いを行った。話の合間、窓越しの青空に目をやった。クーラーの効いた部屋にいるわたしは、「窓の外は暑いんだろうなぁ」と思った。その感覚は、「イラク・パレスチナ・その他世界中で起こっている様々なこと・日本が抱えているたくさんの問題」と「わたし」との間にあるズレと似ていた。「知っているつもりなのに実感がわかない」「大切だと思っているのにどこか他人事に感じる」。そんな自分に、はがゆさを感じている。

 今回、長崎へ行きその場所に立ったことで、日々の生活の中で片隅に追いやってしまっていたものを、こころの中心に持ってくることができた。「その人の側に立って考えてみる」ことが平和への第一歩だと思う。当たり前だけれどむずかしい。毎年この日に礼拝を続けて来られた、長崎の教会の皆さんの強さを見習っていきたい。

 子どもの頃に教えられた「人を殺しちゃいけないんだよ」という言葉を、子どもみたいに言い続ける大人でいたい。



■日本聖公会人権セミナー開催

     ── 新たな歩み始まる ──
日本聖公会中部教区人権担当 松本 普

 去る8月17日から19日の日程で「小さくされた人たちと歩んでいますか?」を主題に、標記セミナーが開催されました。新たな方向づけを確保すべく「ホスト教区の主体性を尊重する」との基本姿勢のもと、中部教区が主導的に企画し、管区担当者と協働で準備し実現したものです。参加者は、「日程上無理」とやむなく欠席となった北海道教区を除き、各教区から幅広く41名(主教4名、司祭11名、執事3名、信徒23名)でした。

 プログラム初日は、開会礼拝に続いて谷主教による聖書研究があり、セミナーの主題箇所として『マタイによる福音書25章31?41節』が選ばれました。2つのセッションでは、全教区から集約編集された<人権問題に関するアンケート>を基に、教区ごとの報告と分かち合いがなされました。アンケートへの異論・反論も少なからずありましたが、それ以上に多様な方法・形式・対象・設問など各教区の独自性を発揮するものでした。内容も多岐にわたる現状と課題を具体的に提示するもので、深刻かつ広範な人権問題を共に考え分かちあうよい契機となりました。

 2日目はチャーターバスで移動して「岐阜アソシア」の事業概要と講話を聞き、施設見学をしました。午後は、名古屋に戻り、愛知聖ルカセンターに開設されている「国際こども学校」の歴史と現状をビデオと講話によって学習しました。夕食後、30年の歴史をもつ「炊き出し」を軸とした野宿生活者支援の諸活動への参加と交流……と、愛岐伝道区の「教区的取り組み現場」での出会いと分かち合いがなされました。

 司式・森主教、説教・五十嵐主教による聖餐式で始まった3日目最終日は、初日と2日目の<教区別アンケート報告>と<ホスト教区取り組み現場>からの学びと分かち合いを通して<分団と全体協議>が設定されました。

 今後、各教区へ持ち帰るべき課題や、取り組み可能な課題は何か。また、方向づけ関して、管区(日本聖公会)がいかに在るべきか……等が熱心に協議され、9月上旬の<振り返り総括(名古屋)>を経て、来年(次回)は「京都・大阪両教区共同開催」ということが表明されました。

 閉会後の企画として初めて準備した<オプション・プログラム>では、被差別部落への12名と、3名(うち2名は「死刑」判決)が収監されている名古屋拘置所へ9名、の計21名が現地を訪問し、好評の内に本セミナーを終えました。今後とも<準備段階から協働して協議を重ね実現していくこと>の基本姿勢に、聖公会全体の必要かつ大切な方向性の萌芽を感じることが出来たと思います。


《図書紹介

 『ウォーラー司祭 その生涯と家庭』

 ジョン・G・ウォーラー司祭は長野聖救主教会の創立者。1998年に聖堂聖別100年を迎えた長野聖救主教会では、「信仰生活を送った百年にわたる先輩たちの足跡を確かめるとともに、その歴史に学びながら、来るべき次の二十一世紀を進んでいこう」と、「長野聖救主教会史」の編集発刊を計画した。その日から6年の準備を経て、まず発刊されたのが本書『長野聖救主教会創立者ジョン・G・ウォーラー司祭その生涯と家庭』である。「あとがき」によれば、原稿の作成・編集には長野聖救主教会歴史編集委員会の甘利千代子、金木歌子、小林史郎の諸氏が中心となって当たり、資料の収集は日本国内とカナダの多くの人たちの協力のもとになされたことがわかる。

 「この出版は単に長野聖救主教会にとっての喜びにとどまらず、日本聖公会史研究の立場から、また中部教区史の観点から考えても大きな成果であります。編集委員の小林史郎氏は多年長野県教育界にて大きな貢献をされ、文学・歴史に精通しておられるお方で、教育界引退後はひたすら長野教会史の研究に没頭してこられました。教会内外、長野県内はもとより、トロントのカナダ聖公会アーカイブスへも出張され、今まで不明であったウォーラー司祭のルーツとカナダ聖公会の事情、また詳細なご家族の消息、帰国と逝去にいたるまでのことを確実な資料によって解明されました。…創立者の史資料を駆使しての本書は中部教区史としても最初の輝かしい成果です。」と、大江真道司祭(日本聖公会歴史研究会会長)は、本書刊行が持つ意義を巻頭で称えているが、まことにその通りで、長野聖救主教会ばかりではなく信越各地に、教会堂と医療施設を開設していったウォーラー司祭の活動を丹念に記す本書の内容によって、日本におけるカナダ聖公会の伝道と日本聖公会中部教区の成立に結びついていく様子がありありと理解できるのである。

 ジョン・ゲイジ・ウォーラーは、1890年(明治23)トロント教区主教によって司祭按手をされた。そして、その年の秋、カナダ聖公会が設立した内外伝道協会の最初の宣教師として夫人と共に横浜に上陸する。最初の赴任地は福島であったが、英米聖公会の日本伝道地方部制の見直しによって、翌年12月にはイギリスSPGミッションの伝道地内となった長野へと赴くことになる。以後長野は日本における彼らの故郷となり、伝道の場所となったのである。

本書は五つの章と、年譜から構成されている。

・ 第一章 ウォーラー司祭が来日した時代
日本開国によるキリスト教の再伝道/イギリス、アメリカ聖公会の日本伝道/イギリス植民地教会から出発したカナダ聖公会の日本伝道

・ 第二章 カナダでのウォーラー司祭
ウォーラー師の育った家庭/来日まで

・ 第三章 日本でのウォーラー司祭
来日したウォーラー師/長野での最初期の伝道(1892?1898)/最初の休暇帰国と帰任して(1898?1914)/長野に再住して
(1915〜1942)

・ 第四章 カナダでの最晩年のウォーラー司祭(1943?1945)

・ 第五章 ウォーラー司祭のさまざまな人間像
神学者・伝道者として/建築家として/実務家、理財家として/家庭人として
・ ジョン・G・ウォーラー司祭に関係する年譜
(附)長野看護婦学校・長野慈恵医館・小史

 1942年(昭和17)6月25日、太平洋戦争が始まった翌年、ウォーラー司祭は心ならずも日本を離れることとなった。52年の長きにわたる日本での伝道生活を断ち切ったのは戦であった。「ウォーラー師は六月十四日午前八時二十五分長野発の信越線で、特高警察付き添いで、帰国のため横浜港に向かわれました。私は水藤繁次伝道師を伴い、ウ師の後を追い横浜に行きました。十七日同師が交換船浅間丸に乗船するのを見とどけて、長野に帰りました。」(相沢誠四郎司祭)

 「神の国」の建設のためにはたらくウォーラー司祭の活動と苦闘を詳細に記す第三章、同司祭の日本観・日本人観を率直に記す第四章、人間像と家庭を描く第五章など、感動と示唆に満ちた内容で惹き込まれるように読み通した。戦後60年、私たちは物の貧困からは遠ざかることが出来たが、その反面いつのまにか失ってしまったものも多い。それは何なのか…。日本人に対して精神的に立ち向かい伝道に取り組んでくれたよき宣教師を持ち得た時代の日本を思い浮かべながら、私は本書を読み通した。
(管区広報主事・鈴木 一)

☆『ジョン・G・ウォーラー司祭 その生涯と家庭』 口絵4頁、本文282頁 発行・長野聖救主教会 TEL 026-232-6043

管区事務所だより Sep. 03

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