日本聖公会第53回(定期)総会において首座主教に選ばれ、正直なところ戸惑っております。北関東教区の主教に選ばれた時も、「私のような無能な者がどうして主教に選ばれるのか」という戸惑いと疑問を抱きました。今回も首座主教の重責を考えると、「どうして私のような者が」という思いを抱かせられています。
こんな時にモーセの召命の記事が思い出されて来ます。主が、エジプトで虐待されて苦しみ、叫びを上げているイスラエルの民を救い出すためにモーセに「今、行きなさい。私はあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」と命令されます。その神の命令に対してモーセは「私は何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」と答えます。モーセは自分の力によってイスラエルの人々をファラオのもとから導き出さねばならないと考えたから「私は何者でしょう」と言って、自分に何の力のないことを表明したのであります。このモーセに対して、神は「私は必ずあなたと共にいる。このことこそ、私があなたを遣わすしるしである」と言って、神がなそうとされることにモーセを参与させることを語られているのであります。
このモーセの召命を通して、神から使命を与えられるのは神がなされることに参与させていただくことであるということに気付かされます。いつも謙虚な思いをもって神と人とに耳を傾けて仕え、神がいつも共にいて導いてくださることを信じて首座主教の責任を果していきたいと思っておりますので、皆様のご支援とご協力をよろしくお願い致します。
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昔は、港や学校のチャプレンをやったり、結構活発に動いていました。この20年は英語も忘れ、難しい本も読まず、静かなパリシュ生活をおとなしく?楽しんでおりました。パリシュ生活も静かに見えても、神様と人間のぶつかり合いをしばしば経験します。しかし、外見的には比較的限られた人と地域の中での静かな生活でした。
管区事務所勤務になり自宅と事務所の電車通勤が始まりました。生まれて初めて通勤定期も買いました。切符を買わずに電車に乗れて得をしている気がします。電車は満員です。でも一人ひとりがそれぞれ大切な人生を背負って電車に乗っています。ワールドカップやプロ野球のことを考えているのかも知れませんが、愛する家族を思い、あるいは悩み、仕事に励み、そして疲れているのかも知れません。そっと自腹を切ってやり繰りをしている会計担当の教会委員さんもいるかもしれません。小さな地味な一人ひとりであっても、それぞれが一生懸命に生きています。
管区事務所は忙しそうです。いろいろな会議があります。世界中からも連絡が来ます。社会にあっての教会の働きを考える時、政治や経済にも関心を払わなければなりません。急に大きな世界に投げ込まれたような感じです。海で働く人々のお世話をしていた時に見た現実を思いだします。差別、搾取、危険、船という閉鎖社会の人間関係、家族と切り離された孤独。社会の多くの場で、特に陽が当たりにくい場で共通する問題でしょう。パリシュでしか果たせない多くの働きがあります。同時にパリシュでの日々では見落してしまう働きもあるかもしれませんし、一つのパリシュだけでは果たせない働きもあるでしょう。御導きを祈りながら色々な働きに当たらなければなりません。教会が一体となって祈り働かなければなりません。管区事務所とはそのために奉仕する所ではないかと思うのです。
でも、事務所であっても事務ではありません。挨拶もせずに別れてきたパリシュのご病人、お年寄り、子供たちのことを思いながら、いやその人たちの祈りを代表するつもりで、勤めたいと願っています。管区のお仕事は初めてです。まだ何も分かりません。パリシュで信徒と共に過ごしてきた普通の司祭として、皆さんにお教えいただきながら誠実に勤めたいと思います。どうぞよろしくお願い申し上げます。 |