ヤコブの井戸にさしかかった時、イエスは旅の疲れを覚え、特にサマリヤの女がその井戸に水汲みに来た時に喉の渇きを覚えました。このように福音記者ヨハネはイエスとサマリヤの女の物語を語り始めます。この出だしは、私たち全てが持っている傾向を象徴的に示し、また、この女の渇きをめぐる物語の導入としてきわめてすぐれたものだと思います。その女の渇きは一体何であり、また、その渇きはどのようにして満たされたのでしょうか。
福音記者はこの女が、おそらくヤコブに由来する部族の伝統に誇りを持つサマリヤ人で、過去に5人の男と結婚し、今も別の男と暮らしていることを伝えていますが、この中毒とも言えるような結婚と離婚の繰り返しが彼女の渇きを象徴していることは明らかです。
それでは、彼女の渇きとは何でしょうか。この女はイエスの「水を飲ませてください」という求めに対して、「ユダヤ人のくせになんでサマリヤ人のわたしにそんなことを言うのですか」と質問します。もちろん、福音記者が言うようにユダヤ人はサマリヤ人の食器を使うことなどないからです。しかし、重ねて彼女は「あなたはわたしたちの先祖ヤコブよりも偉いのですか」とイエスに尋ねます。これらの言葉は、彼女にとってユダヤ人かサマリヤ人かということの方が、目の前にいる人が渇いているという事実よりも、重要だということを示しています。
私たちは家族、部族、国民の中で生まれ育ちます。そして私たちは自分の家族、部族、国民あるいは何であれ自分の属する集団を誇りにするように育てられます。なぜならば、これらの集団が私たちの自己同一性(「私が私であること」)の基礎を提供するからです。しかし、私たちは自分たちが属する集団と完全に同一化することはできません。私は、同じ集団に属する別の人と同じではありません。それは当然のことですが、もし独裁者の支配する社会のように、ある集団に完全に同化するように強いる圧力が強くなれば、この単純明快な事実は抑圧され隠されてしまいます。このような状況のもとでは、私たちが自分を捜し出すのは非常に困難になります。しかし、私自身でありたいという願いは完全に抑圧しきれるものではありませんので、その願いは、このサマリヤの女の中毒状の結婚離婚の繰り返しに認められるように、非常に歪められた形で現れることになるのではないでしょうか。
福音記者によれば、イエスがこのことを指摘しました時に、彼女はイエスを救い主と信じたのでした。彼女はこれまで自分を意志や願望を持つ人格として扱われたことがなかったのではないでしょうか。イエスは彼女にとって自分に人格として関心を示してくれた始めての人だったのではないでしょうか。このようにして、彼女の渇きは満たされたのでした。
私たちは、かならずしもこのサマリヤの女の置かれた状況と同じ状況を生きているわけではありません。しかし、私たちが自分自身であることを求める私たちの願いが実現しにくいという点では、この女と同じ状況にあるということができるかも知れません。私たちが自分自身でありたいという願いが、私たちの渇きであるとすれば、イエスは私たちに、「いのちの水」のありかは私たちの関心の寄せ方にあることを教えています。もし私たちが目の前にいる人の求めに敏感であり、その求めに応答しようとするならば「いのちの水」が湧き上がるということです。イエスが私たちに人格として対応なさり、関心と注意をつねにお払いくださったというところに常に戻りつつ、日々を過ごしたいものです。 |