バルナバ栄一の『「信仰・希望・愛」の展開の物語』 第七部 その2-(4)
十字架の愛・キリストの愛
十字架につけられたキリストの愛は――それは勿論 同時に、「アッバ・父の愛」ですが、すでにこの一連の文書の各部において、記載しましたので、ここで繰り返 しになりますが、私が最重要と考えている二点をあげるのみとします。それは
1、キリストの十字架を信じるとは、二千年昔にあった歴史的事実を信じると云うような、上滑りの事ではな く、その事実が、私たち人類の救いの為であるに留まらず、「わたし個人の為に」、主は二千年前に十字架にか かって下さった、と云う認識が非常に大切(信仰の根幹を創る)だと思っています。
2、パウロが「君たちは十字架につけられたキリストを実際に見ているではないか」と云っているのは、復活の キリストが今現在、生きて私たちに働きかけておられるのは、「十字架につけられて苦しんでおられるままの 姿」を見ている、つ まり十字架につけられたキリストと、復活の相のキリストが二重写しに見えているのだ、ということです。
この二重写しのキリストによって、私たちキリスト者も、苦しみ、悲しみ、悩みを持っていながら、「既に世 に勝っている」ことを主によって知るのです。
キ リストの愛と云うのは、一口で言えば、キリストの御霊、聖霊によって、信仰・希望・愛を与えられてこの 世を生き抜くことでしょう。
パウロは「キリストにある者は、恩恵の下にいるのであって、もはや律法は要らない。キリストが律法の終わり になられたのだ」と云います。しかし人間はそのような素晴らしい自由に耐えられないと云う弱さを持っていま す。何らかの外からの規範や規則に頼りたいのです。パウロはそれに対して、「聖霊による愛」だけを指し示し ます。パウロが「ガ ラテヤ書」で聖 霊の実として《愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制》(ガラテヤ5;22)を挙げてい ますが、これは「キリストの御霊」が与えて下さる《愛》そのものでしょう。その実から生 まれる言葉を、以下に二つほどあげます。
「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に 泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれ てはなりません」
「愛には偽りがあってはなりませ ん。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者としなさ い」(ローマ 12;9以下)
そしてパウロ没後40年のヨハネ文書になると、もはや神の「恩恵」と云う言葉は出てこなくなり、徹底的 に、「神様、主キリストが私たちを愛される愛」「聖霊の愛」によって、「私たちが睦みあう愛の言葉」によっ て満ちたものになります。ヨハネ文書のその言葉を二、三紹介して、「愛」の項を終わりたいと思います。
バルナバ栄一の『「信仰・希望・愛」の展開の物 語』
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