バルナバ栄一の『「信仰・希望・愛」の展開の物語』 第七部 その2-(3)鳩
 

「あ なた方の父が憐み深いように、あなた方も憐れみ深い者になりなさい」 (ル カ6;36)

 父が憐み深いように、と云うのは私どもが到達する 愛の程度や目標を示すのではなく、根拠を示しているのだと市川師は言います。「父なる神が憐み深い方である のは、あなた方がその父の慈愛によって生きているのだからよく知っているでしょう。だからお互いに憐み深い 者になりなさい」と、神は言われているのです。その意味を明確にするために、「神 は憐み深いのだから」と訳した方がよく理解できると師は云われます。マタイ18章33節 に「仲間を許さない家来の譬え」が出てきます。「私があなたを赦したように(赦したのだから)あなたも仲間 を赦すべきではないのか」と王は言うのです。「主の祈り」にも「わたしたちの負い目を赦して下さい。私たち も自分に負い目のある者を赦しましたように」(マタイ6;12)と云う祈りを、イエス様が教えておられま す。これは自分が神の赦しの場に留まっていることを申し述べて、神の赦し(恵み)に自分自身を委ねている祈 りです。私がある人を赦しましたという行為によって、自分が神の恵みの中に留まっていることを告白している のです。こうして「恩恵が支配する 場」では、父が私たちに慈悲深いことと、私たちが互いに愛し合うことが一つになります。どちらが欠けても「恩恵の支配」は成立しませ ん。このような相互関係があってはじめて、「恩恵の支配」の場が究極的に成立するので す。
 
 確かに父の慈愛は完全で、私たちはそれに達することはできません。しかし、C・S・ルイスが言った通り、 「私たちが他人に対して、何かを感じ、思い、行おうとする時、イエス様ならどのようにされるかを考えて、必 死でイエスの真似をしようとすれば、そこに聖霊が働いて下さって、次第にイエス様に似てくる」ようになるの です。神様とイエス様は一つですから、私 たちはこれに大きな望みを持って、イエスに似ることに精を出しましょう。愛を行うこと は、自分を建てることをまず取り上げるのではなく、「相手の立場に立つ」、「まず相手のことを考える」、 「相手を大事にする」、「大切に考える」、言葉はどのような表現であってもよいのです。内容が大切なので す。「アガペー」は結局、敵を愛し、人 間同士の違いは違いとして認めながら、相手をあるがままに受け入れる事が、広い意味の 「赦し」です。愛は必然的にこのような広い赦しの心を含んでいるのです。

 私たちは、父の愛に生き抜かれたイエスを通して(イエスは「神の国」宣教において、赦しを宣べ伝え、赦し を与えられました。イエスは十字架の死に至るまで、赦す愛を貫かれました。イエスは十字架の上で、自分を十 字架につけた者の為に、執り成しの祈りをささげられました(ルカ23;34)。また、自分を裏切ったり、逃 げ去った弟子たちを最後まで愛し、復活後には彼らに現れ、共に食事をされました)、「恩恵の支配」の福音、 即ち愛の支配の福音を聞くのです。「あなた方の父は慈愛深いのだから、あなた方も慈愛深い者になりなさい」 と、恩恵の場に招かれる言葉を聞くのです。幼子のように無条件に恩恵を受けて、愛の場に生きること、それが イエスに従うことです。

 

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聖書

 

バルナバ栄一の『「信仰・希望・愛」の展開の物 語』

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