バルナバ栄一の『「信仰・希望・愛」の展開の物語』 第二部・その2 (2)
「キリスト・イエス」に従う(マルコ8章34節〜9章1節)
わたしの後に従いたい者は自分を捨て、自分の十字架を背負って私に従って来なさい」
弟子たちに苦難の道を進むご自分を示されたイエスは、弟子たちにも苦難の道を進む覚悟を求められる。「従うとはどのような事」かを具体的に初めて弟子たちに示された。弟子たちはいつもイエスと一緒にいて、その言葉の権威と力ある業に圧倒され、漸く、イエスがメシアであると確信した。がその確信はイスラエルを回復し、王としての栄光をこの世に顕されるメシアとしての姿であって、この現世の支配者に殺されるメシアではなかった。「自分を捨て」或いは「自分を否定して」とかいう言葉で「十字架を背負って」の内容が表現されている。「自分の十字架を背負う」と云う表現は、しかし十字架の殉教を指しているのではない。十字架の木を担って、同胞の侮蔑と敵意の中を歩んで行く姿を指している。「イエスに従う」とはこのように「自分の十字架を背負う」生涯に入って行くことです。このような生涯を受け入れる覚悟を持てない者は、イエスについて行くことは出来ない。
自分の力で獲得できるものによって、自分の命を保ち豊かになろうとする者は、結局はその命を失う。それに反してイエスに従う者として、イエスの為に命を捨て自分を否定する者はイエスに見習って自分を神に投げ出して行くのである。そのような者は神から真実の命を頂く。それがその人にとっての「永遠のいのち」である。「わたしの為に」とイエスが言われるのは、当時の迫害の状況の中で、具体的にはイエス・キリストの福音を告白することを意味していた。次に、「人は全世界を獲得しても自分が死者の中からの復活に達しなければ、その人の人生に何の意味があるのだろうか?」死よりの復活を得たならば、その人の人生は勝利に終わったのである。終末信仰とは人間の現在の命を賭けた事象なのだ。
このようにマルコ福音書のこの場所の意味は、迫害や苦難や他人の軽侮の中で、イエスを信じ告白することにより栄光に与るように励ますという面を持っている。けれどそれに留まるものではない。信仰とは何かと云う根本的な問題について、マルコの使信となっている、「イエスを信じる」とは「イエスに従う」事である。イエスと一緒に歩くことによって、イエスが与えられる苦しみを共に受け、その中で自分を捨て、自分が死ぬのである。このように自分の命を失うことによってイエスと共に復活に至る命に生きること、これが「イエスに従う」ことである。「イエスを信じる」とはこれ以下のことではない。ここでマルコが語っている信仰は、パウロが「わたしはキリストと共に十字架につけられている。生きているのは、もはやわたしではない、キリストが私の中に生きておられるのである」と(ガラテヤ書2;19〜20)で告白している信仰と同じである。「イエス・キリスト」を信じるとか、「福音」を信じるとは、このような事態のことです。これがキリスト信仰の奥義です。マルコはこれを弟子たちだけでなく、福音を信仰する者たちへの言葉とするために、「弟子たちと共に群衆を呼び集め」と云う編集句を加えたのでしょう。
と云うわけで、次からはパウロの「福音」伝道について考えたいと思っています。今回の私の記述は、市川喜一師の「マルコ福音書講解」また「神の信に生きる」より、殆ど字句通りに書かせて頂きました。私の心を代弁する師の表現で、これ以上の解説は私にはできませんので、ご本の表現をお借りしました。心から感謝とお詫びを申し上げます。〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
第2部の記載において、次のような間違いがありました。これはすべて、著者バルナバ畑野栄一の責任です。お詫びして次のように訂正いたします。
訂正個所 第2部 イエスの神の国宣教から、弟子たちの「福音伝道」へ 1、小見出し、「安息日の論争」 14行目 誤記 その中の(すべちに)完成 正記 その中の(すべてを)完成 2、小見出し、(同上) 19行目最後の字 誤記 「神」 正記 「人」
バルナバ栄一の『「信仰・希望・愛」の展開の物語』
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