バルナバ栄一の『「信仰・希望・愛」の展開の物語』 第二部・そのI (1)
「信仰・希望・愛」の展開の物語
第二部 イエスの「神の国宣教」から十二使徒の「福音伝道」へ(その 1)
イエスの時代のイスラエルの民は、「神の国」の 来ることを熱烈に待っていた。メシアを、また終わりの日を、待望していたとも云えるかもしれない。つまり、 「主なる神が自分たちを現実に支配される」のを待っていた。イエスは「自分の中に神の支配は来ているのだ。 時は満ちた。その福音を信じて、わたしとの親しい交わりを持ち、わたしを通して父なる神に交わる機会を持ち なさい」と云っておられるのに、民衆はそれを悟らず、自分たちと同じ人間であるのに何故イエスが、力と知恵 を持つのか?と不思議がり、自分たちの生きる現状がよくなることのみを望んだ。「神の国」は既にイエスの中 に来ているが、しかし「神の国」はまだ完成していないので、自分たちの目に見えず、理解することも出来な かった。「イエスご自身の中に神の国の姿がある」のだと認識することが出来なかったのである。
今から、イエスに従って歩き、イエスが民衆に語り、行われた言動が何を示そうとされていたかを見ながら過 ごしたペテロに学んだマルコの「福音書」から引用して「神の国の福音」と彼が受け取った事例を、共に調べま しょう。すべての事例はひけない。但し、引用しました聖書に記載された記事は、必ず自分で聖書のその個所を 開いてお読み下さい。
安息日の論争(マルコ2章 23〜28節)
「安息日を覚えて、これを聖とせよ」と云う規定は、ユダヤ教の律法の中で最も根本的な律法であり「(モーセの十戒」中の一つである、『殺してはならない』と云う律法と同じ 重さを持ち、これを侵すものは死刑にされると規定されている(出エジプト31;12〜17)。この律法は律法学 者によって、後年多くの細かい付属規定が生み出される。「安息日にしてはならない事」の規定は300にもなる が、その1例を上げると、(安息日には2000キューピット(900メートル)以上の距離は歩いてはけない』と 云う規定がある)。イエスと弟子たちはこの2000キューピット規定違反を突かれたのではない。麦の穂を摘むこ とは収穫作業であるから律法違反であると問題にされた。イエスが反論としてダビデの行為を挙げられたのは もっ と根本的な問題、律法の存在理由そのものを論じる為である。一体人間にとって,律法とは何であるのか。「安息日 は人の為にあるもので、人が安息日の為にあるのではない」とイエスは喝破される。エジプトからイスラエルが脱出 したのは、すべてヤハウエの恩恵によるのであって、イスラエルの民自体の力によるのではない。「ヤハウエは6日 のうちに、天と地と海と、その中のすべ+ちに完成することをほめたたえる日です。神はそのように、人間が神の前 に自分の存在を喜び祝う日として安息日を定められた。イスラエルの民が神の民となったのは、民たちに選ばれる価 値があったからではなく、神がイスラエルを選ばれたからである。ただ神の働きによって民は解放されたのです。す なわち人間と神の関係は、ひたすら神からの恩恵に基づいている。 このような状況の下で、イエスの「安息日は人のためにあるので、神が安息日の為にあるのではない」と云うイエスの言葉は律法の中ではまさに革新的である。イエスの中では既 に安息日が成就している。律法を守ることはもはや必要ではなく、それとは別に、賜った聖霊により神との交わりが 実現しているイエスの中では、創造・贖い・救いの完成の祝祭が既に祝われている。聖霊によりイエスの中に到来し ている「神の支配」の現実は、律法の細則遵守を要求するユダヤ教に対する批判とならざるを得ない。
「このように、人の子は安息日にもま た主なのである」
イエスはこのように終わりの日に出現する新しい人間を先取りし代表する者として、ご自分を「人の子」と呼ばれる。「人の子イエス」は聖霊による神との交わりの中ですでに、 「安息日の主」になっておられる。これはイエスだけのことではない。今やイエス・キリストによって購われ、同じ 聖霊の現実に生きるようになる新しい人間すべてに成就するのです。今や人間は、創造と贖いと完成の喜びの祝祭で ある安息日を毎日祝っているのです。人間は安息日に主人となったのです。どのようにしてか? キリスト教会はユダヤ教の安息日(土曜日)を廃して、イエスが復活された週の第一日(日曜日)を主日としたのである。再び律法に捕らわれず、イエスの聖霊に従うようにしよ う。
バルナバ栄一の『「信仰・希望・愛」の展開の物 語』
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