バルナバ栄一の『「信仰・希望・愛」の展開の物語』 第二部・その2 (1)
第 二部 イエスの「神の国宣教」から十二使徒の「福音伝道」へ(その2) 「苦しみを受ける人の子」(マルコ8 章;27〜33節)
勿論イエスの苦難は生後早くから始まっています。「イエスの神の国宣教の旅」の中でどれだけ、泊る所、食べること、沢山の民衆の苦しみに関わり助けることに心身を悩ま されたか分かりません。にも拘らず、身勝手な民たちは自分たちの利益になることだけを願って、イエスを少し も理解できなかった。このイエスへの理解の欠如こそ民衆たちの最大の欠点であるのに。イエスの民への愛と苦 しみを思います。それにつけても、現代社会に最も大切な『キリストの平和』が、キリスト・イエスの十字架と 復活にも関わらず、現代の私たち信徒にも十分理解されていないことは、悲しいことです。思わぬ感慨を失礼。
所でイエスがご自分の死に至る受難を弟子たちに話し始められたのは、弟子たちに「あなたたちは私を誰だと思うのか」と質問され、ペテロが弟子たちの代表のように「あなたは メシアです」と告白した時から始まります。その時イエスは他言することを固く禁じた上『人の子は必ず多くの 苦しみを受け、殺され、3日の後に復活する』ことを教え始められます。弟子たちはびっくり仰天します。ペテ ロはイエスを脇の方に連れ出して「メシアがそんなことを言ってはいけません」と云って、イエスに「サタン よ、退け。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と激しく叱られるし、その後でもゼべダイの 子ヤコブとヨハネの母が「あなたが栄光をお受けになる時、二人の子供をあなたの左右に座らせて下さい」と 云って、イエスに『人の子は仕えられる為ではなく仕える為に、また多くの人の為の身代金として自分の命を献 げるために来たのである』(マルコ10;45)と諭されています。このようにイエスに危急が迫っているとい うのに、まだイエスの「受難のメシア」の本質=第二イザヤ的《ダビデ的ではなく》メシアは、弟子たちにも理 解できていなかった。
人の子に戻りましょう。「人の子」はイエスが言い始められた言葉ではありません。旧約聖書で預言者が 再々用いていますが、一番用いられる文章はダニエル書に「4つの獣に象徴される世界帝国の支配者たち(世界 の滅亡に瀕している状態を表わす)と云う表現の後に、「人の子のようなもの」が神から遣わされ永遠の支配権 を与えられて世界に救いが来るという、終末の光景が語られています。そのダニエル書の記載以後、「人の子」 は世の終末に天から遣わされる超自然的な審判者、支配者を指す称号として用いられるようになります。福音書 が「人の子が苦しみを受け、殺される」と云う言葉をイエスの言葉として伝承する時、マルコ福音書が、受難物 語の主であるイエス、復活者キリスト、の栄光ある出来事であるとして示しているのです。マルコは「人の子は 必ず苦しみを受け、殺され、三日の後に復活する」と云うイエスの言葉を(ホ・ロゴス)=み言葉と呼んでいま す。(8;32)。マルコはこのイエスの言葉こそ福音だと云っているのです。だから、イエスのご復活以後 は、「人の子」はイエスの称号となり、外の人には用いられません。この言葉は、イエスがエルサレムに着かれ るまでにあと二度「私が復活するまで人に話してはならない」と云う厳命と共に、弟子たちに話されます。そし てイエスは群衆の歓呼に迎えられてエルサレムに入って行かれます。それから過ぎ越しの祭りの夜、最後の晩餐 (イエスのからだと血として、パンとを葡萄酒を弟子たちに与えられた)。今日私たちが頂く聖餐の意味を深く 考えたいと思う、マタイには、「これは、罪が赦されるように多くの人の為に流されるわたしの血、契約の血で ある」と詳しく説明されていますが。続いてゲッセマネの祈り、イエスの裁判(ここで重要なことは、方々引き 回され、色々な非難と質問の上に)、大祭司が「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と問うたのに対し、イ エスは「わたしはある《エゴー・エイミ》=そうだ。私は神の子メシアである」と答えられたことです。この (エゴー・エイミ))は、神がご自身を顕される時に、みずからを名乗られる言葉です。これまでの裁判の経過 においても、イエスの心身の苦しみは大変な事だったと思われますが、ここではその頂点と思われる十字架刑で の主の苦しみのことに触れたいと思います。十字架の苦しみ
十字架が人間の言葉では表現できない程の苦しみであることは、おもに肉体的苦痛に関してのみ考えると、人間の私たちにも想像できると思います。けれども当時ローマ支配 下の国々では重罪の人間の死刑には普通に用いられていました。そこで理解できるのは肉体的苦痛だけです。イ エスの苦しみの痛烈さは? 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と云う悲痛なイエスの訴えが聖書に記載されて いますが、≪わたしの神よ、わたしの神よ、何故わたしをお見捨てになるのか、何故わたしを遠く離れ、救おう ともせず…後略≫と云うあの詩編第22編(全部を是非お読みいただくように希望します)の初めの言葉を読ん で、イエスが同詩編の全体を覆っている神への信頼と平安を顕そうとされたという見解もありますが、イエスは 単なる殉教者ではなく、イエス様はゲッセマネで苦難の杯を飲み干しておられるのです。だから、私は到底その 解釈を肯定できないと感じています。あの十字架上のイエスは、神の子であることを放棄して罪にまみれた一人 の人間として父の神から実際に見捨てられておられるのです。神の裁きの下で、真っ暗な死の中に突き落とさ れ、絶望の極に立たされておられるのです。この叫びは、霊を含む全存在の滅びの下にある人間の叫びを、イエ スが、人間に代わって叫んでおられるのだ、と云う市川師の解釈に心を打たれます。「キリストが私たちの罪の 為に死なれた」と云う福音の本質からは、この見方しかないと考えます。
イエス・キリストとのこの出会いによって「死から救い出された」私たちはしかし、自分が冷えているとい う悩みを、偽りのない兄弟愛に欠けていると云う苦しみを、私たちに二心のあることの悲しみを、知っていま す。だから、自分たちの祈りに添えて、聖霊が言い表せぬうめきを以て祈っていて下さることを頼みとしていま す。そして、偽りのない兄弟愛と、喜びの満ち溢れる、主キリストを頭とする教会を創れと「十字架」と「復 活」によって語られる神様のみ言葉=「イエス・キリスト」に聞き従おうとするのです。
バルナバ栄一の『「信仰・希望・愛」の展開の物 語』
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