バルナバ栄一の『「信仰・希望・愛」の展開の物語』 第二部・そのI (2)
「種を蒔く人の譬え」(マルコ4章1〜9節) 以下
この譬を理解する上で大切な前提は。聖書では「刈り入れ」とか「収穫」はいつも終末的な時を指し示す比喩であると云う事実である。終末とは厳しい選別と審判の時であるが、同時に喜びに満ちた栄光が顕れる時でもある(イザヤ9;3・マタイ3:2など)。この譬えでは「刈り入れ」とか「収穫」とかは文章の中に出てこないが、種蒔きの状況との対比で、収穫が主題になっていることは明らかである。「神の国」到来の使信が響き渡っている。
イエスはこの所で「神の国」到来の原理を語っておられる。すなわち、神はこの地上に栄光の種子を蒔かれた。この種は人間の不信や頑なさの中で失われてしまったように見えるが、それが神の種子である以上、その栄光は時が来れば必ず顕れるのである。イエスはその原理だけを語って、具体的な内容は聞くものひとりひとりの状況に応じて聞くように、聞く者一人一人に解釈を委ねられる。「耳ある者は聞くがよい」。今 福音を信じキリストにあって生きる者は、どのように聞き取るべきか?三重の内容
第一の内容は、イエスの出現によってイスラエルの歴史の中での神の支配が成就し、今「神の国」が来ている。救いの時が臨んでいるという喜びの告示である。「時は満ちた」と云う告知を譬えの形で示しておられる。神は世界に「神の国」と云う収穫をもたらす為に、まずイスラエルの民を選び、種を蒔かれた。所がイスラエルの民の不信と傲慢によって、蒔かれた種は大半悪い土地に落ちて、失われてしまったように思われた。がその悪い状況の中で、神は預言者たちを起こして御言葉と御業を保存し、来るべき時に備えられた。そして、今やイエスの働きの中に、イスラエルに備えられたすべての約束は成就し、「神の国」は到来している。この成就の喜びが「種蒔きの譬え」の中に響き渡っている。
第二に、この譬えは現在のイエスの「神の国」宣教の働きと、やがて顕れようとしている栄光との対照を語る譬えとして理解できる。イエスは聖霊によって既に「神の国」の現実をご自分の中に宿してそれを宣べ伝えておられるが、その宣教は不信と敵意に囲まれて、世界に「神の国」が現れる気配はない。かえってイエスの意図は敵視され、迫害されてご自分が死に至ることを知っておられる。種は多くは悪い土地に落ちて失われるのである。けれどもそれは神の種であるから、信じる者がいかに少なくても、時が来れば必ず、神の支配の栄光が溢れるのである。今イエスの蒔いておられるわざと言葉とは、たとえ今は敵意の中に埋もれ隠れていても、すぐに豊かな神の栄光となって輝き出ることになる。
この第一と第二の譬えの「理解」は、イエスの「神の国」宣教の二重性に対応している。イエスの宣教には、「神の国」が既に到来しているという面と、将来すぐに顕れようとしているという両面があろう。この両面の緊張に満ちた関わり方にイエスの「神の国」宣教の特色がある。しかし、神の蒔かれた種は、いかに人間の不信や敵意の中に失われたように見えても、必ず豊かな実を結び、輝かしい「神の国」が現れるのです。
第三に、この譬えは、人間が死に定められている現実と、神が与えて下さる復活との対照を示す譬えとしても理解することが出来る。福音を信じて復活者キリストに結ばれて生きる者は、聖霊によって神からの新しいいのちを受けている。ところが人間の生命は生まれながらの人間本性に巣食う罪の為に、その体は死に定められている。神からの新しいいのちは、本性的に神に逆らう古い人間性の中に閉じ込められ、覆い隠されている。しかしそれが神からのいのちである以上、必ず豊かな栄光の中に花開くのである。それが復活である。神はご自身に属する者たちに、神からの新しい生命にふさわしい別の体を与えようとしておられる。キリストに属する者は、イエスが復活されたように、「霊の体」を与えられて死人の中から復活する。それは今キリストにあって神の中に隠されているいのちが顕現する時である(コロサイ3;3〜4)。使徒パウロは「どんな体で復活するのか」と云う問いに対して、
「愚かな人である。あなたの蒔くものは、死ななければ、生かされないではないか。中略・・・神はみ心のままにこれに体を与え、その一つ一つの種にそれぞれのからだをお与えになる」 (Tコリント15;36〜38)。
そしてイエスは「よくよくあなた方に言っておく。「一粒の種が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒の種だけである。もし死んだら、豊かな実を結ぶようになる」(ヨハネ12;24)と云っておられる。
復活こそ「神の国」の最終的な内容です。「種蒔き」の譬えによって「隠されているもので顕れないものはない」という「神の支配」の根本原理を示し、それによって「神の国」の最終内容である将来の「復活」の確かさを指示しておられる。この終末的な「神の国」到来の原理が「種蒔きの譬え」で語られているのです。
バルナバ栄一の『「信仰・希望・愛」の展開の物語』
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