バルナバ栄一の「聖書談話」(マルコによる福音9・10) (4)鳩

皆で話し合う「マルコによる福音書(9・10)」

マルコによる福音書3章7節〜35節

 

  私たちは、選ばれた者の歩む道の厳しさを考えます。召し給うた主の意志に全面的に服従しましょう。かつて12人の使徒を立てて、それを教会の礎とし給うた主は、今私たちをその教会に召し、終末的事態に中で共に生きて下さるのです。(私の思っている『終末は来ている』事が十分に述べ切れてないと残念に思いますが、お許しください)。

  さて3章のベルゼブル論争で終わりの方、 28はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。29しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」30イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。  について一言言っておきたい。

 主は、ハッキリ言っておく。すなわち、アーメン! と言われるのです。先ず罪が赦される。アーメン!。神を汚す言葉も赦される。アーメン!(不思議ですね)。更にマタイにおける並行記事では「人の子に言い逆らう者も赦される。アーメン!」。十字架のキリストに逆らっても尚、赦しの恵みは追い迫ってくる。だが、聖霊を汚す罪は赦されない。何故ならイエス・キリストにある赦しを私たちのものと確認してくださるのは、聖霊の力によるからです。それ故、聖霊への冒涜は、赦しとの絶縁を来させるのです。人々が十字架の恩寵以前に陥っていた「父なる神の赦しからの切り離し」を自ら承認してしまう事なのです。それは律法学者に発せられた警告です。だが、キリスト者はここに、更に厳重な警告を聞かねばなりません。何故なら、Tコリント12:3に言うように「イエスは主である」との告白をさせる御霊が私たちに与えられており、ヘブライ人への手紙10:19に言うように、「恵みの御霊を受けた後もこれを侮る者には、更に厳しい刑罰が望む」からです。

  3章31節以下には、イエスとその母、その兄弟との関係が出てきます。私の母、私の兄弟?・・・それは誰の事か、とイエスはお尋ねになります。何と非情な、と入門当時は感じました。でもイエスと私たちの関係は、誰の介入も赦さない真剣な関係なのです。パウロは、「かつてはキリストを肉によって知っていたとしても今はそのような知り方をするまい」(Uコリント5:16)と言っています。それでは何によって知るのか。――霊によって知るのです。霊によって、とは、精神的に理解する事とまったく別です。又非現実的と言うのとは全く逆です。霊によってという事こそ現実なのです。だからパウロは「人もしキリストにあらば新たに創られたるなり。古きは既に過ぎ去り、見よ、新しくなりたり」と叫んだのです。神の御心を行なうものが神の家の家族だとイエスは云われたのですが、信仰は観念や理解だけでなく、現実です。だが現実の行いとは何でしょう。突き詰めて云うならば、イエス・キリストが私たちの中に、私たちの兄弟として入ってこられて救いのみ業を行い給うたこと、そのみわざが現実となっているのです。行なうとは信じること、御心とは救いなのです。

 

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