バルナバ栄一の「聖書談話」(マルコによる福音9・10) (1)
皆で話し合う「マルコによる福音書(9・10)」
マルコによる福音書3章7節〜35節
湖の岸辺の群集
7イエスは弟子たちと共に湖の方に立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、8エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まってきた。9そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。10イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからである。11汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。12イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。
イエスの時はまだ来ていなかった。イエスはメシアである事の中に、奉仕と犠牲、最後に愛で終わる十字架の道を見ておられた。イエスはメシアを愛という言葉で考えられ、人々はメシアをユダヤ民族主義で考えた。イエスは、ご自分がメシアであると言う宣言をされる前に、メシアは何を意味するかと言う正しい考えに人々を導くように教育されねばならなかった。未成熟な宣言は、イエスの全使命を破壊する恐れがあった。だからイエスは時が来るまであえて危険を冒されなかった。けれども、彼の避けられたものは、単に危険を避けて時を待たれただけではなく、退いて祈る為であったのです。その彼のお姿を私たちは心に焼き付けねばなりません。私たちの信仰が辛うじて支えられるのは、活動的な彼ではなく、祈り給う彼によっているからです。「あなたの信仰がなくならないように祈る」と言ってくださるのは(ルカ22;32)彼なのです。彼は弟子達を連れて会堂から退かれました。直ぐあとで私たちは、12弟子の選任を見ます。イエスが弟子を教育される時、一面では彼らを社会から隔絶し避けさせられますが、一面では、まだ未熟なうちに実地に働かされるのです。「私たちは、『自分はまだ力がないから実践は何もしない』」と言い張ってはならない。自己の弱さや罪をたてにとって、あたかも主に受けいれられていない、主の贖いの死を受け入れることによって、義とされていないと言って奉仕を辞退してはならないのです。主イエスは、手元に置くことによって、又実地に当たらせる事によって弟子を教育されます。唯私たちがみずから、はやりたって外に出る事を重んじすぎてはならぬだけです。一体イエス・キリストの弟子教育は何の為だったのでしょうか。この世を次第に良くしてゆく為だったのでしょうか。いいえ、来たらんとする時代に、改まった世において、初めてその真価を発揮するような、新しい人間を彼は創られるのです。「神の国」が既に来ているように、「神の支配」がこの世でも現実に行なわれているように生きる人間、を創られるのです。
イエスはこうして、海辺に退かれたのですが、おびただしい人間が彼についてきました。会堂において彼は主であり給うたのですが、その外においていよいよ主であられました。ガリラヤ、ユダヤやエルサレムの人々は当然、イドマヤ、ヨルダンの東、ツロ、シドン、すべて異邦人の地です。だけど、異邦人の地に散らされたユダヤ人であったかもしれません。(福音が異邦人に語られたのは使徒言行録の時代だと聖書に記載されています)。これは既に終末的な出来事なのです。「残りの者が帰ってくる」(イザヤ書10:20)と言われていた「その日」が始まったのです。しかし、群衆が喜びをもつてイエスの許に来たのは正しい意味でではありませんでした。奇跡、癒しを求めてでした。確かに、癒しを行う事もイエスの憐れみによってでした。でもイエスは群衆から離れて祈らねばならなかった。十二弟子を選ばねばならなかった。奇跡を求める群集の希望に応えることは、イエスの第一目的ではなかった。彼は「神の国」が来ている事を宣言する為に来ておられたのです。私たちもその「神の支配」を喜んで受けないなら、イエスの十字架によって私たちの「罪が償われた事」をハッキリ捉えて、神の前にひれ伏していないなら、十字架は躓きとなり、イエス・キリストの復活は私たちには幻となり、復活のキリストと私たちとの関係は力の源泉となり得ないのです。しかし、目前の、押し迫り癒しを求める人たちへの愛が、イエスを、癒しの働きへと動かせるのです。そして「神の子」を叫ぶ悪霊に向かっては、尚キリストの秘密を守るように「黙れ」と命じられるのです。彼の事を「神の子」と明かすのは、み心にかなった者でなければなりません。
バルナバ栄一の「聖書談話」
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