バルナバ栄一の「聖書談話」(マルコによる福音9・10) (3)
皆で話し合う「マルコによる福音書(9・10)」
マルコによる福音書3章7節〜35節
現在の弟子たち、すなわち私たちも同じようにイエスからの選びが与えられるのです。先ず第一に私が決断するのではなくて、イエスの選びが先にあるのです。マタイによる福音書の「山上の説教」で述べられたのは、単なる道徳ではありません。新しい人間の規範が述べられたのではないのです。キリストと共に新しい世が開け、新しい人が生まれた、その新しく創られた人間の新しく創られる道程はこうなるよと説かれたのです。この山で、主キリストは御心にかなった者を召されました。その人は「良き聞こえ」のある者で無く、積極的服従を申し出ている者でもなく、宗教的な天賦の才のある者でもなく、ただ、彼、イエスが「私のもとに来よ」と言われただけの者なのです。イエスの栄光ある意志だけがすべてです。人類の中から優秀な者だけを選りすぐって教会を創り給うたなら、その教会はこの世よりいくらか高い水準を保つでしょう。でもやがてこの世が過ぎ去る時、高い水準の教会も滅び去ります。主はこの世と別な水準をお持ちなのです。それが神の国の原理であり、彼の御意志なのです。新しいいのちに生きる人間の生き方とは、「心の霊を新たにして作り変えられ、何が神のみむねであるか、何が善であって神に喜ばれ、かつ全きことであるかを弁え知る」ことである、とロマ書12章にあります。このようにして12使徒は立てられました。(ここまでは渡辺宣夫師のマルコ福音書講解説教集による)
彼らはイエスのお傍に置かれました。それは決して親衛隊という意味ではありません。生活を共にする事によって、全人格的な教育をすることでもありません。それは彼らに続く者、――私たちを含めてーー召された者たちが「主と共にある」為なのです。積極的に世に出て行く事も大切です。だが、ぶどうの枝がその幹に繋がっているのを大切にする事の方が大切なのです。今は降臨節です。「インマヌエル」イエスがお生まれになられた時です。ご存知のように、インマヌエルは「神様は我々と共におられる」と言う意味です。すべての人間には、神が共におってくださる、終わりの時がやってきているのです。それは12弟子が、イエスの傍に置かれただけではなく、宣教の為に遣わされるという使命が与えられたように、インマヌエル・イエスが来られた事を信じる者には、「神の国」に関わる為に、宣教のわざが与えられるのです。宣教のわざ、難しいようですが、「私はイエスの十字架に救われた」と明らかに言う事ではないでしょうか。実に簡単ですね。でも宣教は単に「神の国」を告げ知らせるだけではなく、「神の国」を現臨させるのである、と言われると困惑します。悪霊を追い出すのは、神の支配が、隠されてはいるが力を持って来ている事を、顕にするしるしです。これは単に悪霊に憑かれた悲惨な人々を助ける社会事業ではありません。そのような愛の事業を積み重ねてゆけば、社会の問題はなくなって、神の国が実現すると言うのでもありません。神の国は始まっているのです。その愛を顕にするのが使徒のつとめです。だがその実行には彼ら自身の力ではなく、神の力、主からの権威を頂かなければなりません。福音を霊の力をもって述べ伝える権威を持った使徒を、イエス・キリストが立て給うのです。
所で、私たちの教会の事を振り返ってみましょう。使徒である12人の集団ですら実に雑多な集団である事を感じますね。この人間的なあらゆる弱さを含んだ十二人の集団は、私たちの教会の縮図です。そしてその中に、イスカリオテのユダがいたのです。私たちもユダになる危険性を持つのでしょうか。剣呑剣呑。
バルナバ栄一の「聖書談話」
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