バルナバ栄一の「聖書談話」(マルコによる福音書D) (4)鳩

 

 ついでに、当時の会堂はユダヤ教徒の宗教生活の中心であっただけではなく、律法の研究機関であり、子どもの学校であり、地方の民事裁判や刑事裁判を行い、民衆に律法を教える所であったのです。そのようにしてユダヤ教は基礎を作っていったのです。その作られた集会でイエスは、民衆に出会われたのです。そして、民衆の魂の内的経験が積み重ねられてゆくのです。
 イエスはカファルナウムで宣教し始められました。何処に根拠を定められたか、よく分かっていないが、恐らくシモン・ペテロの家が根拠地になったのであろうという意見が多い。最初の会堂での説教がすむと、ペテロは自分の家にイエスを連れてきた。でも姑が熱を出して寝ていた。勿論イエスは言葉だけで直せるのですが、神様がそこにいらっしゃって、その恵みが皆の目に見えるように、姑の手をとって起こされるのです。熱が去り、癒された姑はいそいそと、イエスを始め一同をもてなす奉仕を始める。何時でも、何処でも、女性の奉仕が集会を成り立たせるのですね。
安息日は勿論夕方まで、人々は仕事をする事を律法で禁じられている。人間を運ぶ事も、その仕事に数えられているから、夕方になってやっと人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を、イエスのもとに連れてゆく事が出来るようになります。イエスはすべての患者達を癒し、悪霊を追い出し、その悪霊に「神の聖者だ」と言う告白をさせられない。このことは「微行=インコグニト又は『メシアの秘密』」と言われているが、マルコ福音書の後の所で触れます。それにしてもイエスの働きは、最初から最後まで休まる時がない。私達も夢中で人や教会の集会の為に働いている時には、何処からか力を頂くのである。その疲れの中でイエスは、神に祈り力を頂かれる。その時は朝早くしかない。やがて群衆に起こされたシモンや他の弟子たちがイエスを探しに来てイエスを求める民達の所に、つれ帰ろうとします。人間は結局、神の力をも自分たちの願望に役立たせたいのです。ところがそのようなな人間の願望にイエスの使命は対立します。「福音を宣べ伝える」と言う行為が、救いとしての最重要なモチーフだからです。人が救われる為には,それを聴いて信じる事が、直ちに救いとなるような言葉が必要なのです。「主の名を呼び求める者はすべて救われる」のですが、「然し信じた事のない者がどうして呼び求める事があろうか。聞いたことのない者が、どうして信じる事があろうか。遣わされなくては、どうして宣べ伝える事があろうか?」(ロマ10;13〜15)。イエスはこのような質の言葉を述べ伝える事が自分の使命であると自覚されているのです。だから、ペテロ達がイエスを病人達の所に連れ帰ろうとする時、「近くの町や、村に行こう。そこで私は宣教する。その為に私は出て来たのだから」と言われるのです。イエスはご自分をこの世に属するものではなく、別の所、父なる神の所から来たと自覚される。イエスのこの自覚は父なる神とのまったき交わりから来るのです。父なる神とのまったき交わりは、人間にとって『終末』の事態ですから、イエスは終末から来られた方であるとも言えるのです。しかし、時満ちて『神の支配』がこの世に来たと、いう福音を述べ伝えるのに、イエスは単なる口先の言葉だけではなかったのです。「悪霊」を追い出し、病人を癒すという力ある業をもって、その言葉が「権威ある言葉」である事を示されました。私たちもこの『神の支配の到来を、癒しの時節の到来を待ち望みたいような兄弟姉妹の病気の状況を見て、私たちの出来うる限りの範囲で、つまり私たちガ心を一つにして、神の国の『愛』に満ち溢れる教会を創りたいと心から皆様も望まれるでしょう。

 

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