バルナバ栄一の「聖書談話」(マルコによる福音書D) (2)
15節「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じない
今日からは、割合スムースに聖書を読んで行けると思っていたのですが、そういう訳にいかない事に気づきました。何故なら、イエス様が生涯で一番重要な言葉を発しておられる聖書の箇所だからです。「時は満ち」とはどんな意味でしょうか。神様が約束なさったイスラエルの平和(やがて世界の平和になって行くのですが)、その「キリストの平和」が完成に向かう時が来たよ、待望の時は過ぎ、その時が来たんだ、第二イザヤが予言したあの平和の時が、と言っておられるのです。
いかに美しいことか、 山々を行き巡り、 よき知らせを伝える者の足は。
彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、 救いをつげ、
あなたの神は王となられた、と シオンに向かって呼ばわる。
その声に、あなたの見張りは声を上げ、皆 共に、喜び歌う・・・・・・
(イザヤ52;7〜8)
平和の時とは何か? 終わりの時、神の国が完成する時ですね。「神の国」とは、私たちの考えている、日本とかアメリカとか、国の領域ではありません。神様の支配の事です。「神の国」・・イエスは何か新しい思想や信仰の事を宣べ伝えられたのではないのです。神が私たちとの交わりを回復してくださって「王として支配される現実」を、イエスの生き方を通して示し、神の国はご自分の中に、イエスの中に来ていると宣言されたのです。予言としてのイスラエルの歴史、その実現・成就としてのイエスの出現と生活、特にイエスの十字架の死と復活によって主イエスの生涯全体が世界の為の神の救い「神の支配」(神の国)を成就していると宣言されたのです。イエスのその宣教を通して、イエスが既に来られたから神の国は既に来ているという面は勿論あるのですが、裁きがまだ終わっていないから完全な神の支配はまだであるとも考えられるのです。神の国は既に来たけれども、完成するのは未来です。その緊張と矛盾の中に私たちはまだいます。だから「主よ、来たり給え」と言う再臨待望・平和待望への祈りが当然あるべきなのです。
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