バルナバ栄一の「聖書談話」(マルコによる福音書B) (4)鳩

(4)あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適うもの」

  バプテスマの時、イエスに降ったこの言葉は、預言の成就として神から下されたのである。私たちを救おうとして二千年続いた神の準備の完成として、イエスに与えられた、その預言は「見よ、わたしが選んだ僕(シモベ)わが魂が喜ぶわが愛する者。わたしはわが魂を彼に与える。彼はもろもろの国びとに道を示す」(イザヤ42:1)です。これは「主の僕の出現」を預言した第二イザヤの預言で、数箇所に及ぶ「主の僕」預言の最初のものの冒頭の一節です。イスラエルでは最初の一句で全体を代表させる習慣であった(主イエスの エリ エリ レマ サバクタニ もそうです)事を考えると、イエスは洗礼に際して受けたみ言葉によって、ご自身が「主の僕」預言の全体を成就する者として召されていると自覚されたと考えられます。イエスは御霊を受けることによって「主の僕」として召されたのです。預言者の生涯はその召命体験によって決定されるからです。ここで、冒頭の句「見よ、わが僕(シモベ)」が、「あなたこそわたしの子である」となっている事が注目される。「見よ」が「あなたは・・・である」となっているのは、あなた=イエスへの直接の話しかけだからですが、「僕」が「子」と言う意味になって、イエス様が受け取っておられるのは、「主の僕」としての召命を受けられたイエスが、その召命の言葉の中に「わが子よ」との呼びかけを聞いておられる事で、非常に重要です。このように「子にして僕」「僕にして同時に子」という二重性が、イエスの人格と生涯を理解する鍵になる。父と一つである子として、唯独り父を知るものとして、イエスは父を世に示す事を自分の使命とされた。同時に、「主の僕」の姿、特にイザヤ書53章に語られている世の罪を負って苦難を受ける僕の姿を自分の進むべき道として受け取られたのです。イエスがバプテスマの時に体験された事《召命体験》が、イエスの人格、働き、生涯を理解する鍵です。イエスの活動全体はここから発するのです。(市川喜一師「マルコ福音書講解一章『聖霊降臨、御言体験』より引用」。

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