バルナバ栄一の「聖書談話」(マルコによる福音書B) (2)鳩

(2)ヨハネから洗礼(バプテスマ)を受ける

  バプテスマのヨハネのよい評判を聞いておられたのか(ガリラヤからも沢山の人が、バプテスマのヨハネの許に行ったという記事が前回の所に見えます)、宣教を始めようとする最初に、イエスはエルサレムに上って行かれるのではなく、ヨルダンの低い所、ヨルダン川のほとり、ヨハネのところに洗礼を受けに行かれます。それは決意の時でした。
A、罪の赦しを得させる洗礼を受けさせて欲しいとヨハネにたのまれます。
B ヨハネのような[かがんで自分の靴の紐を解く値打ちもない]者から洗礼を受ける。
何故でしょう。昔これを読んだ時、「神の子がどうして?」と疑問を持ちました。何故、神の子が自分の威厳を損なうような仕方で洗礼を受けねばならぬのか。彼は罪なきお方であったにも拘らず、罪を悔いてバプテスマを受けようとする群集の中に加わりました。彼はヨハネよりはるかに優れた方であるにも拘らず、ヨハネの手でバプテスマをお受けになりました。キリストのへりくだりは、宣教の出発の時から何時も変わらないのです。イエスが受け給うバプテスマの時から、ヨルダン川に浸される時から、彼の十字架まで、へりくだりは続くのです。彼の決意は、父なる神への従順から来ているのですから。
 そして勿論ヨハネは、[私こそあなたから洗礼を受けるべきなのに・・・]と一旦は拒否します。私たちが考えても、それが本当だと思える仕方です。しかし主イエスは[今は、とめないで欲しい。正しい事をすべて行うのは、我々にふさわしい](マタイ福音書3:15) と言って受洗を強行されるのです。私たちの理性や合理性ではこの正しさは分かりません。この正しさは神の真理が判断を下す、高度な、圧倒的な出来事で、私たちの信仰がわずかに納得できる領域に属するのです。ヨハネ自身も「わたしは水で洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」(マルコ福音書1:8)と言い、現実に後年パウロもエフェソで、ヨハネの洗礼しか受けていない、聖霊を受けてない弟子たちに会い、イエスの名による洗礼を授けたところ、その人たちが聖霊を受けたと記しています(言行録19:1〜7)。現在行われています水の洗礼は、ヨハネの水の洗礼とは違いますが、罪を悔い改めさせる、水の洗礼です。確かに聖霊による洗礼の準備を含んでいるに違いありませんが、この洗礼を受けた人々が、新しく生まれたいと言う決意にも拘らず、洗礼後直ちに聖霊を受けて目を見張るような新しい出来事は起こらない事が普通です。前にも書きましたように私が聖霊を受けて新しい生涯に入ったと感じたのは、洗礼を受けて7年後でした。バプテスマを受けはしたが何も新しいことは起こらず、新しい人間も生まれ出ないという嘆きは、古くて新しい問題です(と渡辺信夫師も「マルコ福音書講解説教」の中に書いておられます)。それにも拘らず、悔い改めのバプテスマに過ぎない「水のバプテスマ」の中に、イエス・キリストがこの時入られて、バプテスマの実質となられ、「キリスト・イエスにあうバプテスマ」(ローマ書6:3)となり、復活者キリストがバプテスマを受ける私たちのそばに立って下さっているので、私たちがキリスト・イエスに向かって飛躍しようとしても、挫折には終わらないのです。勿論、イエスには少しづつしか近づけませんが。
 聖霊を受けると、自分の力ではない力を受けるのです。私が聖職、信徒と共に働いた、≪教役者遺児教育基金1億円募金、「仰望」共同聖書研究の出版≫、などに加わったこと、寿子が、病の人・苦しんでいる人・SS・《胎児クラス》 などに働いていることなどは、自分の働きではなく、上からの力によらなければ出来ない事と実感しています。

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