バルナバ栄一の「聖書談話」(マルコによる福音書B) (1)鳩

(マルコによる福音書1:9〜11)
イエス、洗礼を受ける(マタ3:13〜17、ルカ3:21〜22)

1:9 その頃、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。10水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のようにご自分に降って来るのを、ご覧になった。11すると、[あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者]という声が、天から聞えた。

(1) ガリラヤのナザレ(ナザレ人イエス)
(2) イエス、ヨハネから洗礼(バプテスマ)を受ける
(3) 天が裂けて、聖霊が降ってくる(イエスに)
(4) 「あなたはわたしの愛する
子、わたしの心に適う者」


(1)ガリラヤのナザレ

  初めに、前回イエスの母マリアとヨハネの母エリザベトが従妹だったと言いましたのは私の間違いで、親類だっただけです。ですが小説「聖書」でウォルター・ワンゲリンはイエスとヨハネが従兄弟であったと書いています。なんとも幻想的でしょう。 さて天使ガブリエルから[聖霊による妊娠]を告げられたマリアが、自分より6ヶ月早い妊娠が起こったエリザベト《この妊娠も神の介入があるのですが(ルカ1:5〜20)》を訪問した(ルカ1:36〜45)事の記載を見ると、イエスとヨハネが親類であり、二人は胎児の時から知り合っていた、と想像されます(ワンゲリンの影響で、これも幻想的です)。このようにイエスとヨハネが同時代人であったという事実は、大変大切であると思われます。私たちも、生きておられる神の子イエス様と同時代に生きているという証し、自覚を持つ事が重要なのです。つまりイエスは生きておられるという信仰が必要なのです。何故なら、私たちにとっても、力、私たちが動こうとする原動力はキリストにあるからです。そのことは聖霊の所で触れます。さてイエスさまは30歳まで、ガリラヤのナザレで、鳴かず飛ばずというのでしょうか、ひっそりと成長されます。勿論、母マリアとのふれあい、大工である父ヨセフの職業訓練、兄弟姉妹に対して長男として世話されたことなどが想像できますが、マルコは他の福音書記者のように、系図や、誕生、子ども時代の事に一切触れず、イエスの話をガリラヤのナザレでの宣教開始から、つまり公生涯を始められたことから始めます。ナザレから出発して、イエスの宣教が始まるのです。マルコにはイエスの伝記を書くつもりは毛頭ありません。では
ガリラヤのナザレはどのような処でしょうか。当時でも、ユダヤではガリラヤは文化果てる所、片田舎、辺境の地と広く認識されておりました。後に12弟子の一人になるフィリポがイエスをナタナエルに紹介しようとして次のように言った時、「私たちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。ナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」。ナタナエルは次のように答えました。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」。そういった彼も、イエスと問答をするうち[あなたは神の子]と答えて弟子になるのですが、(ヨハネ福音書1:43〜51)、ナザレという地名は、ユダヤ人にはそのような認識しかなかった。しかし辺境の地ガリラヤはイエスが宣教を始められた地であり、故郷に容れられぬ預言者を実感させられた(ヨハネ福音書:4・16〜30)地であり、学識のない同志たち=弟子達、大部分の故郷であり、イエスが山上の説教を述べられた地でした。しかし故郷の人は、兄弟すらイエスを理解せず(ヨハネ福音書7:3〜8)、エルサレムで処刑されるまで、故郷を失ったイエスは、病人を癒し、福音を宣教しながら諸国を放浪されるのです。真の故郷である[神の国]を指差しながら。

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