バルナバ栄一の「聖書談話」(マルコによる福音書A) (5)
ヨハネは随分変わった格好をしていたようですが、これは何を意味しているのでしょうか。預言者エリヤと同じ格好です。マラキ書4:5に「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日の来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす」、という予言があるのですが、ヨハネはそのテシュベ人エリヤと同じ服装をして、(テシュベ人エリヤのことは列王記Uの1章に書いてあります。殊に8節に。)そのいでたちしか出来ない人間である事を示しました。すなわち、自分は「主の大いなる日がまさに始まろうとしている事を告げる為に遣わされた人間だ」とヨハネは云っているのです。「福音の初め」に立たされているのを自覚しているのです。人々に、予言されていた終末的な時代に入った事を感じ取らさねばならなかったのです。彼は云っています。「私より力のある方が、あとからお出でになる」と。ヨハネはまず、キリストの証し人として現れたのです。キリストはその時ヨハネの傍に既に、この世界に来ておられました。ヨハネの時以来キリストは「生きておられる」のです。だから「福音」も生きているのです。故に福音はヨハネの時から始まった、とも言えます。でもヨハネは唯ひたすら、あとに来るものを指し示しました。自分がイエス・キリストに較べて如何に力の劣るものかを謙遜に伝えたのです。「わたしはかがんでその方の履物の紐を解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」。ヨハネの謙遜は生活態度でも現されました。いなごと野蜜を食べていた、と書いてありますが、いなごというのは或いは「イナゴマメ」という一番下等な豆類であったかも知れません。野蜜は、野生の蜂蜜のほかに、ある種の樹液です。ヨハネはそのような粗末なもので生活し、あらゆることで低くされた自分を顕し、唯ひたすら、主イエスを指し示したのです。終わりの大いなる日が始まったのだよ、と。
今日のレジュメ
- バプテスマのヨハネは、旧約的、預言者の最後の巨人であって、イエス・キリストの先き駆けとして同時代を生きたということ。
- 福音は、倒れた者を起こし、辱められた者を栄えさせる為に、荒れ野から 始まった。人間も心の荒れ野から出発する事が望まれる。
- ヨハネの使命は「罪の赦しと悔い改め」のバプテスマを宣ベ伝えることであった。悔い改めとは、心を入れ換えること。神に帰ることです。信仰によって自分が洗礼を受けている事を、神様の呼び声を感謝しましょう。
- ヨハネとイエスの最大の違いは、「神の子」と「人間」と言うことですが、だからヨハネの授けるバプテスマは水のバプテスマであり、イエスの お授けになる(洗礼)バプテスマは、「聖霊のバプテスマ」なのです。
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