バルナバ栄一の「聖書談話」(マルコによる福音書A) (4)
「自分達は神の側に立っている。神の外にいる未信徒の方々とは条件が既に違うのだ」と思っている、当時のユダヤ信徒達の傲慢こそ「悔い改め」が最も必要だとヨハネは叫びました。当時最も信仰深いとされていたサドカイ派やファリサイ派の人々に向かってヨハネは《蝮の子らよ・・・『我々の父はアブラハムだと』思ってもみるな》(マタイ3:7〜8)と悔い改めを迫ったのです。しかしそれは現在の私たちキリスト信徒の立場のことかもしれません。洗礼を受けているか、いないかの問題ではなくて、キリストの平和を理解し、キリストの愛を信じ、実行できているか、どうかの問題だからです。実行出来ていないという点において、信徒も未信徒もまったく同一の点に立っているのです。大多数の信徒は、実行できない自分に気がつき、悔い改めているだけです。では悔い改めって何でしょう。後悔でしょうか?後悔とは全く違うものです。尤も、後悔に似た感情が入ることもありますが、基本的には、「神様がご自分に似た者として人間を創られた」と言うことと大きな関係があると私は思っています。「神の形に似せて創られた」といっても、神と人間の形状が似ている、と言うわけではないことはすぐ分かりますね。神様のご性質を頂いている、と言うことですが、所が困ったことに、神様のご性質なんて人間に分かる筈がありません。だから神様はモーセを通して,十戒を賜り、律法によって、「こうしなさい」、『こんな事をしてはいけない』と事細かに教えられた。所が人間は枝葉末節にこだわって、肝心の神様の根本的なご性質;「愛と平和、憐れみと寄り添い、つまり赦し」を忘れてしまうどころか、神そのものを見失い、神に背くと言う失敗を続けるのです。イエス様が現れて下さって、神様のご性質をはっきりと示してくださったのに、それを認めないで、十字架につけて殺してしまった。しかし、十字架、復活を信じる者には、聖霊=神の霊を与えて、神のご性質はこのようなものだと示された。「私は水で洗礼を授けたが、その方(イエス)は聖霊で洗礼をお授けになる」とヨハネが言ったのは、そのことです。現在でも、信じる者は、キリストによって聖霊を注がれ、全存在が聖霊に浸され、そこから新しい命に生きる者として生まれ出るのです。マルコはそう云っているのです。大切な洗礼の事は次回に話します。
バルナバ栄一の「聖書談話」menu
|