バルナバ栄一の「聖書談話」(マルコによる福音書A) (2)鳩

 しかしこの福音は[イエス・キリストの生涯の出来事全体を意味する]と気づいた時、私たちのエゴイズムが崩れ始めます。自分の利益、面子、地位、勝つこと、ほめられる事ばかりまず一番に考える事が疑問になってきます。そして、福音は容赦なく自分のこの世的な利益を棄てる事を、献身を、要求する事が分かって来ます。しかし私たちが涙を飲んで、しぶしぶ福音に従うと、本当の喜び「喜びと自由」と言うものがどのようなものかが分かってくる。福音に聞くと、《イエス・キリストに聞くと、と云い直しますが》、そして聞く事は従う事を含んでいるのですが、この「喜びの知らせ」をどうしても人に話したくなってくる。85歳にもなって皆さんと一緒に聖書を読もうと言う気にならせるのは福音だからです。福音は理屈ではない。人に伝えようとする気持ちが湧いてくる、そういう性質のもの、喜びなのです。それはイエスから来るものだから、イエス・キリストの福音です。つまり、イエス・キリストと言う人格から伝わってくるものです。愛そのものであるイエス・キリストの現実に出会うことだと思います。包み込むもの、支えるもの、照らし出し、光り輝くもの、暖めるものです。
さて、ヨハネのバプテスマ運動は、(旧約の)予言の成就であり、神様の約束が成し遂げられようとしているのだと知って、民衆がどんどんその洗礼を受けにやって来ます。ユダヤの全地方とエルサレムの住民とありますから大変な数ですが、「皆」と言うのは神に働きかけられた者は皆なのです。その数が多いことによってヨハネは益々神から出た者である事が分かります。マルコの書いているイザヤ書の予言と言う言葉の前半はイザヤ書ではなく、マラキ書3:1の『見よ、わたしはわが使者を遣わす。彼は私の前に道を備える』であり、《主なるさばき主が来ようとしている。その先触れが既に派遣された。終末の日が近づいている》と言っているのです。ヨハネが現れて宣教を開始したのは、西暦28年ですが、ヨハネの叫びは民衆の待望に答えて「神のご支配が始まる。待望していた尊い方が来られた」と言って、終わりの日に神の民を呼び集めるために、バプテスマを施したのです。言葉の後半はイザヤ書40:3の『呼ばわるものの声がする。[荒れ野に主の道を備え、砂漠にわれらの神のために、大路をまっすぐにせよ]です。第2イザヤは、主の民らがバビロンでの捕囚から解放され、まっすぐに荒れ野をよぎって帰ってくる道を備えよ、と言ったのですが、マルコはその言葉を用いて、その道を主なるメシアの道、主キリストがその民を慰める為に急ぎ来られる道、と解釈しました。終りの時に救い主が出現する予言です。つまりよく見るとマルコは、「イエスより先に現れて、悔い改めのバプテスマを宣ベ伝えてヨハネが働くこと」が、イエス・キリストの道を開くことだと、はっきり記している。それはヨハネの先駆けによって現れるイエスの出現を、旧約時代の全歴史を貫く救済史と結びつける為です。だからイエス様は弟子達に、『エリヤは既に来たのだ。・・・ヨハネは旧約の中でもっとも大きい預言者だが・・・』と仰った。(マタイ11:10〜15)(エリヤは、キリストが現れる前に、現れて色々の準備をするという、マラキ書の予言があった;後述)。

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