バルナバ栄一の「聖書談話」(マルコによる福音書A) (1)鳩

(マルコによる福音書1:2〜8)
  (マタ3:1〜12.ルカ3:1〜9。ヨハ1:19〜28)


1:2  預言者イザヤの書にこう書いてある。
 「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わしあなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶものの声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼(バプテスマ)を宣べ伝えた。5ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。『私より優れた方が、後から来られる。私は、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。私は水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。』

 前回は、「イエス・キリストの福音の初め」についておもに学んだのですが、では福音とはどのようなものか、福音の性質に簡単に触れておきます。勿論福音は、イエスが「神の支配は近いよ」、即ち、病む者、不具の者を癒し、貧しい者に福音を伝えられたこと、と、弟子達が伝えたケリュグマ(イエスが十字架につけられて人間の罪の贖いをし、復活して聖霊を私たちに与えられたこと)との綜合であって、この二つは全く同性質のことなのですが、しかしイエスさまは、マルコの8:35には「わたしのため、または福音のために、自分の命を失うものは、それを救うであろう」。10:29には、「誰でも、わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を棄てた者は・・・百倍のものを受け」と云われています。つまり福音と言うものは、私たちがその福音の為には、色々なものを所有する事も、親しい者が私と共に存在することすら、第一義的なことではないと否定して、福音を聞くことに較べれば、そんなものは取るに足らんものだと言われている。何一つ失うまいと言う態度では人は福音から何も得る事は出来ないと云われるのです。注意すべきは、文章中の、福音という文字の前に「わたしの為に」と言う言葉が入っている。つまり福音(よい便り)というものは、イエス・キリストの事実:イエス・キリストそのものだ(前述の二つを綜合したもの)と言うことでしょう。信仰に入った初めは、福音の為に愛する人たちすら棄てねばならぬ事があると云うことに私は我慢できなかった。他人をも愛しようと考えてキリストを信じたのですからね。まして自分の親しい者たちを棄てるなんてとてもとても出来そうにない。

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