2月の末から3月の初めにかけて10日間、オランダ、べルギー、英国を駆け足で訪ねました。
7年前に亡くなった友人のお墓参り、雨の中のヒッチハイクで拾われたのだから恩人というべきか。この友人は、前の湾岸戦争では掃海作戦の指揮を取りその功績でべルギー海軍最高司令官に出世して退役bこれで軍人が務まるのかと思うほど家族と平和を愛した優しい人物、とても人を攻撃なんか出来ないだろう。機雷処理が専門だったから務まったのだろう。
小さな国とは言え国境を超えてのお墓参りの次の日は、オランダ人の友人に無理を頼んでオランダ北部のウオルテンボルグ収容所跡を訪ねた。中継収容所とでも言うのか、アウシュビッツなどの強制収容所に送られる前に集合させられた場所。秘密が漏れないように−見平和な収容施設を装って学校、病院、劇場からユダヤ教礼拝所まで作られた。しかし順番がくれば、家畜用の貨車に乗せられてアウシュビッツなどに移された。ここから10万人以上が移された。今は資料館と記念碑しか残っていない。それが故に想像力を働かせる。どんな思いで劇場や礼拝所に集まったのかと。面白いものは何もないのに、子どもたちがたくさん見学に来ていると、オランダ人の友人が喜んでいた。殺された方も勿論、痛ましい犠牲者、子どもさえも貨車に乗せたドイツ兵は許されないが、彼らも犠牲者かもしれない。戦争は優しい人間をも変えてしまうのだろう。機雷処理だけなら幸運だが、「正しい戦争」なんてあるのでしょうか。
ロンドンでは主にACCなどと重債務国援助の相談、重債務国の定義から始まる。IMFと世界銀行が定めた重債務国・最貧国に限るのか、実際に極端に困難な状況にある地域も含めて考えて良いのか。国家として豊かでも現実に何とか応援したい「貧しい地域」が数多くある。手続きが煩雑な国際機関ではなく教会だからこそ出来る働きがあるのではないかと思うのです。アフリカでもアジアでもエイズの問題が極めて深刻になっています。日本聖公会は重債務国援助資金として皆さんの献金を約1千万円お預かりしています。お金を送るだけでなく、いろいろな困難を分かち合えるプログラムを出来るだけ早く立ち上げたいと相談中です。私にとってはこの相談が今回の訪問の中心でした。
さて2月27日の新カンタベリー大主教の着座式、古い町の小さな路地と広場はイラク戦争反対のデモで一杯。狭い地域だから集まれる人数は限られているけれども、ゴメンナスッテ、ゴメンナスッテをカタカナで言いながら人垣を掻き分けて大聖堂構内に入る始末。
「勿論私も反対」なんて話している状況ではない。門を入れば空港と同じく厳しい手荷物検査、さすがに靴までは調べなかったけれど。戦争を危倶する厳しい雰囲気であつた。
礼拝は3時から始まるのにプロセッションは2時lO分に動き出し、3時丁度にチヤールズ皇太子が着席するまで続く。荘厳さはご想像ください。大主教の椅子は「オーガスチンの椅子」と呼ぱれる石の椅子、誓約に用いられたのはカンタベリー・ゴスペルと呼ぱれるもので5世紀か6世紀にイタリアで書き写され、大グレゴリー教皇からオーガスチンに与えられたとされるケンブリッジ大学図書館蔵の物。石の椅子とオーガスチン・ゴスペル、やはり伝統のシンボルだろう。
大主教着座式の内容は時代によって変わってきたようだ。今回の特徴は主賓格のカトリック教会代表のウェストミンスター大司教が新約聖書を朗読されたことでも分かるようにエキュメニカル、さらに他宗教の代表も多く招かれていた。この他宗教のお客様を新大主教に紹介するお役目は日本におられたイプグレイヴ司祭。聖公会の世界的広がりを示すのかアフリカの太鼓、新大主教の出身地ウェールズと関係するのかハープの演奏。手話通訳がついていたから障がいのある人も招かれていたのだろう。
同時に大法官と訳すのかロード・チャンセラー、ブレア首相、ロンドン市長、国教会であれば英国社会の代表が集まるのも当たり前なのでしょう。絢欄豪華といっても、あまり良く見えない席だから、私は別なことを考えていました。世の中、戦乱と病いと貧困にあえいでいるときに、この荘厳で美しい礼拝は何なのだるえと。勿論、聖公会がまた新しい時代に向かい新しい歩みを始める折であり、喜ぴと祝意に満ちていて良いし、私もそこに出席している一人です。しかし先ほどの門の前での反戦デモの叫び、前前日ACCで話していた貧困やエイズ問題の深刻さを思いながら、この記念すべき礼拝が、外の社会と「別世界」のような壮麗さだけで良いのだろうかという落ち着きの悪さを感じたのです。
でも、新大主教の着座説教になると、この場はこの説教のために用意されたのではないかとさえ思えたのです。一部だけ勝手に選べぱ、「私たちは聖書と祈りによってキリスト者として生きている。しかし反面、他の信仰を持つ人々とも同じ共同体の中で生かされていることも事実である。私たちは他の異なった文化の中から人間性について多くを学ぷことが出来るし、また学ばなければならない。戦争に対する嘆きや反対、債務や貧困の問題、偏見、失業、むなしくもまた残酷なまでの性欲の追求、不信仰、子どもの虐待、力のない高齢者の問題、これらすべての問題において「神のかたち」としての人間の尊厳をあらゆる人々とともに求めなければならない」と説かれた。
イラク開戦を前にして政治的な内容はなかったと理解する人もいるようだが、私には人間のあるべく普遍的な姿を説かれることを通して、あらゆる問題の根源に触れておられるという意味で、この時と場を選んで説かれた力強く極めて「政治的」なメッセージに聞こえたのです。ある意味で宗教界と市民社会の代表者を前にでの説教、ブレア首相もいる場の説教ですから。戦争という重大事象でありながら、そのことだけではなく一番深いところからの悔い改めを呼びかけておられるように聞こえるのです。(戦争の問題だけなら、この1週間前にウェストミンスター大司教と共同で反対声明を出しておられるし、前前日の国教会総会は反対の決議をしている)
この原稿を書いている間にイラク戦争が始まってしまいました。あるテレビ局は24時間実況中継かと思う熱心さでしたが3日過ぎると高校野球に変わりました。報道管制があるでしょうし、危険もあるでしょうから仕方がないのでしょうが、ミサイルの発射よりも私たちはそれがどこに落ちて、何が起こっているのかを知りたいのです。大統領宮殿よりも子どもたちを心配しているのですb無力さを感じます、でもあきらめてはいけないとも感じます。
新聞ではイスラム原理主義とならんでキリスト教原理主義という言葉を目にするようになりました。神学的定義は別にして、私たちこそ「キリスト教原理主義者」でありたいと願います。キリスト教の根本原理の一つは「自分の敵を愛しなさい」というみ言葉ですb教会幼稚園や保育園の子ども、日曜学校の子どもでも知っています。いや、幼子の方が素直に受け止めています。私たちは子どもたちとこの原理に固執したのです。あきらめないで子どもたちと平和を祈りたいのです。子どもたちと−緒に祈りましょう。子どもたちは、祈りはきっと聞き入れられると心から信じて心から祈りますから、神様もお聞きくださると思うのです。祈りましょう、子どもたち一緒に子どもたちのために。
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