バルナバ栄一の『「信仰・希望・愛」の展開の物語』 第八部 その2-(2)鳩

 

 では現実の生活の中で遭遇する、苦難や悩みに対する望み(むしろ願望と云うべきでしょうか)を神様は知って答えて下さるのでしょうか。主イエスは「神は生きている者の神である」と云われましたし、イザヤ30:19「主はあなたの呼ぶ声に答えて、必ず恵みを与えられる…」と云う記載もあります。個人的な願いも聞いてくださると思います。勿論主の答えは忍耐して待たねばならぬでしょう。その答えの中で、私たちの望みも自分勝手なものではなく、正しく訂正されることもあるでしょう。人間同士のつきあいの中でも忍耐ほど大切な徳はありません。私たちは忍耐を続けてやっと「キリストの平和」を世界の中で達成できるのです。それが私たちの大きな希望です。
 
 私も日本人ですから、年を取ってこの頃しきりに執着煩悩と云った言葉を思い出しています。仏教では、厳正な修行を経て選ばれた、僅かの僧侶が得度して「悟り」の境地に入れると聞いていますが、キリストを信じる者は皆ただイエス・キリストの十字架と復活を信じると云う単純な信仰だけによって聖霊を賜り、神様の恩寵と力を頂き、三位一体の神の力によって、わが身が愛と平安と自由に満たされると云う、希望を頂く。その希望によって私たちの人生は、喜びにあふれることを証しして行くのです。このことが、キリストの「信仰・希望・愛」と云う光からの指示であるように思えます。
 
 芦屋聖マルコ教会の今年の年句は「主の光の中を歩もう」(イザヤ5;2)です。一体「主の光」はどのようなもの? 暗くないのです。人間界は暗くても、主はその光によって云われる「わたしは暗くならない。如何なる絶望も私にはない」。主は希望の源泉。光。
私たちの、神・キリスト・イエス、聖霊。三位一体の主。だから当然温かくされるのです。人間同士の交わりが多少険悪でも、「わたしが中に入れば、すぐ温かくなるよ」と云われるのです。それは聖霊の実を自分に帯するようになることです。もう一度「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ5;22)が生きている自分の姿を創り、キリストの豊かな「信仰・希望・愛」に沿った、「神の愛に生きている」人間性に溢れた自分の生き様となって来る事を祈りましょう。上より勇気を戴いて!

最後にもう一度 市川喜一師にお礼を申し上げます。有難うございました。

バルナバ  栄一


そして、もう一つ最後に、この《「信仰・希望・愛」の展開の物語》は一つの欠点を持っていることを謝らねばなりません。私はこの一連の物語が間違いをしたと云うつもりはありません。いやそれどころか、イエス・キリストの福音について自分の力を尽くして書き上げたと思っています。しかし、一部聖書的に漏らした視点があったのではないかと恐れています。

それはマタイとルカの福音書が、「マルコ福音書」と「語録福音書Q」とを編纂したもので、マルコ「福音書」では、イエスの受難とキリストの復活を含めて、イエスの出来事全体が、福音と記載されているのに、「語録福音書Q」では、伝承によるイエスのお言葉と教えのみ(たとえばマタイの山上の説教、又ルカの平地の説教,また大切な「主の祈り」など)を含んでなっており、且つ、マルコ福音書では、自分が福音を伝えていると明らかにその福音書の中で宣べていますが、「語録福音書Q」では、福音と云う言葉がどこにも用いられず、タイトルとして用いられている「語録福音書」が、そのタイトルに相応しくないのではないかと云う論さえあるようです。私は福音とはイエス・キリストの生涯の出来事であるとを信じていますので、あえて、「語録福音書Q」を、自分の書いたこの物語の中で詳述しませんでした。しかし、イエスの伝承が語る、例えば、「主の祈り」や「山上の説教」などが、「信仰・希望・愛」の展開の中に、当然含まれるべきものであることを否む者ではなく、私の論述の中の諸所で述べて来たと考えています。ひと言弁解まで。

なお「語録福音書Q」は、「語録資料Q」と記載さることもあります。

これで
「信仰・希望・愛」の展開]の物語を終わります。主の平和!


 

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