バルナバ栄一の『「信仰・希望・愛」の展開の物語』 第八部 その1-(1)鳩

「信仰・希望・愛」の展開の物語

 第八部 「信仰と愛」に結びついた希望 (その1)

 

 エルサレムがローマの軍勢に滅ぼされ、神の民としてのイスラエルの崩壊が決定的となる少し前、少数のユダヤ人がエルサレムで同国人に叫んでいました。「あなた方が十字架につけて殺したナザレ人イエスを、神は復活させた」。(使徒3;15・4;10・5;30)

 はじめに、3人の先達が「希望」について書いておられることを読みましょう。

希望の効用


  希望が人間実存に対して持っている意味は、酸素が肺に対して持っている意味に較べられる。酸素を取り去ってしまえば、人間には窒息死と云う事態が起こる。それと同じように人間から希望を取り去れば、人間は絶望と云う呼吸困難や、人生は空しく無意味だと云う気持ちから生じてくる、心的・精神的衰弱と云う、心のマヒ状態・或いは虚無の状態に陥る。酸素の供給が有機体としての人間の生命に是非必要である如く、希望の供給が人間の運命を決定する。(エミール・ブルンナー。「永遠」より)。

希望と不安
  人間は時の中の存在です。その事は人間が不安の中の存在であることを意味します。不安とは、将来が不確実であって、自分がどうなるか分からないことから来る存在の根底の動揺感、或いは喪失感です。人間が時間の中の存在である限り、不安は免れません。その不安を克服するのが希望です。希望とは、確かな良い将来が現在の生の根底を支えることです。希望とは、未来が現在に突入している状態です。
 時の中にいる人間にとって、最も確かな将来は死です。死の彼方にあるものが何であるか分からないので、死と云う将来は現在の生を根底から否定するものとなり、根源的な不安となります。この不安を克服する希望はあるのでしょうか。人間にとって基本的なこの問いに答えることが、今回の「希望」に関する考察の、第一の目的ですが、欲張りな人間にとってのその他もろもろの希望についても考えたいと思います。(市川喜一師・畑野一部)

「希望に向かって」
  (故小池俊男主教著、小池宣郎、義郎 両兄編集「み翼の陰に」より)


  「信仰と愛と希望」の三つと云う。しかし、これは三つであって一つである。バラバラに並立する三つではない。それは「父と子と聖霊の関係」の如くである。
 私たちの希望とは何か?それは「からだのよみがえり」の時、新天新地の成る日への希望に生きることである。「からだのよみがえり」とは、息を失った人が再び起き上がって歩き出すと云ったような事ではなく、霊魂の不滅と云ったことでもなく、また死後その人の人格的感化が他の人々の心に残ると云ったような事でもない。
 「からだのよみがえり」は、ただイエス・キリストの約束によって信じ、その復活によって確信させられる事実である。不思議にも聖霊の直接の説きあかしが、私たちの心にささやきかけて、そこに私たちの「アーメン」が許されることである。
 イエス・キリストの復活は、人の言葉で語り得ない驚天動地の出来事だった。それをせめて書き表そうとしたのが新約聖書の記事だったのだろう。それは永遠の輝かしい神の子の姿がまぶしく見られた時であって、神の子の生涯が覆いを取って見せられたのである。
 私たちはイエス・キリストに接合(ッ)がれたものである。葡萄の枝のようにその幹である御子に結び合わされ、その幹の生命は枝えだにも及んでいるのである。御子の復活、栄化(救いの完成)の姿に続く者とされたのが私たちである。この栄光と希望を思うべきである。これがクリスチャン・ホープであり、キリスト者はこの望みに生きる者である。

 この望みの日は今の世で力を尽くして生きることの内に見られるものではない。今の世で生きる生き方とは、イエス・キリストに聞き従い(信仰)、自らを低くして他に仕えて行く事である(愛)。他に仕えることが生きる意義である。自らを燃焼させて、他を生かしてゆくことが生涯の意義である。それは一言で「愛」と云われることである。

 かいこ(蚕)は繭を作ってやがて蛾になって行く。蚕は蛾になる日を知らないであろうし、なるとも思ってないだろう。蚕と蛾は姿もあり方も全く違ったもののように見える。
 その様な譬が、人間の現世での生涯と後のよみがえりとに譬えられるかもしれない。今の私たちの肉なる人の姿が死の中を通って、後の日のよみがえりのからだを与えられるのはそのような事かも知れない。いまの時はただ、イエス・キリストを仰ぎ見て、彼により頼み、その後ろに従って十字架の道を行くのみである。
 悲しみにもくじけず、苦しみにも立ち上がり、喜びの中にも安住せず、成功の時にも満足せず、どのような時にもキリストの悩みを自分のものとして力を尽くすのです。

 私たちは、尊い者として神がこの世に生れさせられた一人ひとりである。この世の数十年の生涯が終わった時、無に消えてしまうべきものとして、存在させられているものではない。輝かしい日が待っている。復活の希望である。 「以上 故小池主教の言葉」


 

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