バルナバ栄一の『「信仰・希望・愛」の展開の物語』 第八部 その2-(1)
「信仰・希望・愛」の展開の物語
第八部 「信仰と愛」に結びついた希望 (その2)
「キリストに合わせられて」生きる
このようにパウロが「信仰」と云う時、それは既に「キリストにある人間の在り方全体」を指しているのですから、それは福音が告知する「主であり、復活者であるイエス、すなわち主イエス・キリスト」を告白し、その方に自分を投げ入れ、その方だけを拠り所とし、その方に合わせられて生きる人間の在り方全体です。
所で、この(キリストに合わせられて生きる)と云う現実は、人間の態度とか姿勢だけでは現されません。キリストをわが主と告白する者だけに与えられると約束されている「聖霊」を受けることによって、態度や姿勢が初めて現実に、その人を本物にするのです。つまり、福音を自分の全存在をもって聞くことが、「信仰」と呼ばれているのですが。その信仰は人間の側の態度だけに終わるものではありません。十字架につけられて死んだ復活者キリスト・その事実を信じる者が聖霊を受けて、復活者キリストの現実を体験するようになることが、私たちの信仰の根幹となるのです。福音の世界においては、信仰とはキリストを内容とする体験、キリスト体験以下のことではありません。この体験を深められますと、「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きておるのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2;19)と云うパウロの述懐になります。私たちの信仰はキリストが顕された神の信(誠実・真実)と恩恵に基づいて、イエス・キリストを主と告白することによって賜る聖霊により、十字架と復活のキリストとの交わりを生きる、体験を与えられるわけですから、パウロが、「ピステイス・クリストウ」(キリストの信仰)と云った時、このような内容豊かな意味を持っていたと理解できるようになります。人間はこのキリスト信仰によって、真実に生きるようになるのです。
でもこの信仰によるキリスト体験と云う言葉を聞いただけで私たちの大方が、尻込みしてしまうでしょう。パウロのダマスコ途上での出来事などを思い出し、キリスト体験など、普通の人間は経験出来ないと感じるからです。だが私の経験から言いますと、キリスト体験とは、既に私の内におられるイエス・キリスト様の霊との交わりから生じてくる、生活上の動きの指示、殊に対人関係での指示、また知恵と云いますか、御言葉の解釈、もろもろの事象の理解と云った、ごく日常生活に即した、三位一体の神様への対応、であるように思えます。そしてそれは聖霊の実に沿った言動となる、筈です。つまり、聖霊の実「愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・柔和・節制」(ガラテヤ5;22)が形に現れて、豊かな「信仰、希望、愛」に沿った人間性に溢れた私の対応、となって現れるでしょう。
しかし、残念ながら、私には生まれながらの醜い人間性がまだまだ完全には聖化されていません。駄目人間が随所に現れます。でもね、C・S・ルイスは「諦めずに一生懸命、イエスの真似をしているうちに、駄目な自分の言行の中に、イエス様が入って来て下さって、キラリと光らせて下さるようになるんだよ」。つまり、聖霊の働きがわたしの現実の中に見えてくるのだと云っています。故小池俊男主教様も「あなた方は洗礼によって、小キリストとされたのだよ。その事をわきまえなさい」とよく云われました。単純に、キリストの霊が働いて下さることを信じて、主の言われる善に向かって前進しましょう。
そして第一に、信仰は神の言葉の出来事ですから、神の言葉だけを人生の頼みとし、第二に、キリストの十字架に顕された神の恩恵を感謝し、「主の祈り」のすべてに心を注いで祈りながら、殊に「赦し」の重大さに心を致しましょう。第三に、信仰はキリスト体験から起こるのですから、聖霊の励ましを望み、復活を信じて、祈り続けましよう。
バルナバ栄一の『「信仰・希望・愛」の展開の物語』
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