バルナバ栄一の『「信仰・希望・愛」の展開の物語』 第七部 その1-(2)鳩
 

愛 の働き

  「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求め ず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望 み、すべてに耐える」 (T コリント13;4〜7)

    ここで愛(アガペー)の働きが14の動詞を用いて描かれます。愛は、御霊と云う神の命の本質です。それ が人の中に宿り、働き、現れる時の姿が、簡潔に見事に表現されています。初めの二つ、「忍耐強い」と「情け 深い」は、愛の積極的な働きを描きます。「忍耐強い」と云う動詞はガラテヤ書(5;22)では名詞形で「寛 容」と訳されています。「違い」や「対立」、「敵意」までも耐えて、相手を広い心で受け入れる姿です。「情 け深い」と云う動詞は、父が「情け深い」と云われる時の形容詞(ルカ6;35)を動詞にしたものです。父が そうされるように、受ける価値のない者にも無条件で与える姿勢です。この二つの動詞の裏に、イエスが言われ た「敵を愛しなさい」とか「あなた方の父が慈悲深いように、あなた方も慈悲深い者になりなさい」(ルカ 6;36)と云う言葉が響いてきます。
 次の「ねたまない」から「不義を喜ばない」まで、八つの否定形の動詞が続きます。この八つの動詞は、人間 の本性(パウロはそれを肉と呼んでいます)に巣食う生来の悪を見事に列挙しています。私たちはその本性的な 悪(パウロはそれを肉の働きと云います)を努力や修行で抑えることが出来ないのです。そのような本性的な悪 を駆逐して、その様な悪をしないように出来るのは、御霊の愛の力だけです。御 霊は悪と相反する質の命だからです。 

 ところで、ここで列挙されている行為をすべてしたから愛を実現したとは言えないことに注意すべきです。愛 はそういう人間の倫理的、道徳的行為の総計とか結果ではないのです。愛はいのちの質であり、御霊の賜物、そ の現れなのです。御霊の無い所に、「アガペーの愛」はありません。
 パウロはこの「愛の働き」を最後に一文で締めくくっていますが、市川師は次のように訳しておられます。
 「愛はすべてを包み、すべてを信 じ、すべてを望み、すべてを担う」と。

 ここで用いられている「すべて」は、全部とか全体と云った意味ではありません。どんな相手でも、どんな状 況でも、つまり、敵であっても、状況が絶望的であっても、相手を包み込み、信じ抜き、共に喜ぶ将来を望み、 苦難・苦悩を自分の方で担うのです。それは人間の力では無理ですが、神の霊だけが可能にする愛です。破れ果 てた人間の愛をいやし、壊れた関わりを見事に建ち上げて行くのです。市川師は、「すべて」を次のような比喩 で示唆しています。

 「愛は、海のように包み、太陽のよ うに信じ、星空のように望み、大地のように担う」。

海はどのようなものでも大きな懐に包み込んでいます。そのような形のものは包み込めないと否定しません。太 陽は、よい実を生み出すことを信じて万物に命の光を注いでいます。星は闇夜に輝いて行くべき方向を指し示し ます。大地は万物をその上に担い、重くて嫌だと苦情を言いません。破れ果てた世界で《アガペー》は、包み、 信じ、望み、担うのです。 


 

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