バルナバ栄一の『「信仰・希望・愛」の展開の物語』 第七部 その1-(1)
「信仰・希望・愛」の展開の物語
第七部 ≪愛なる神≫溢れる愛 満たす愛 沁み込む愛 (その1)
最初に、「愛の讃歌」 愛がなければ(Tコリント十三章について)「あなた方は、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。そこで、わたしはあなた方に最高の道を 教えます」 (Tコリント12;31)
既に第5部において、私たちひとり一人に授けられている賜物(カリスマ)が、父なる神、子なるイエス・キ リスト、聖霊なる神から、(エクレーシア)=霊なる教会、を建ち上げる為に上より与えられたものであり、個 人の徳を称賛する為ではないことを学びました。色々な賜物を持たされたそれぞれの人が、決して自分を誇るこ となく、主キリストの下に一致して教会を創ることが神様の目的なのだと知ったわけですが、パウロはここで、 最も大きな賜物「愛」を 追い求めなさい、と云って、「愛の讃 歌」を述べ始めます。「愛」は最高の道なのです。人間が自分の生命を生き切るのに、最も 価値のあるものは「愛」であると、文章のはじめに詩的な言葉で美しく語ります。愛 こそ神の霊の本質であり、愛がなければいかなる霊的な賜物の顕われも、神とは関係なく、 空しく、カリスマ(賜物)を持っておる人の働きも空しいのです。
「たとえ人の異言、天使たちの異言 を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしい銅鑼、やかましいシンバル。たとえ預言する賜物を持 ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていよ うとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人の為に使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死 に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」 (Tコリント 13;1―3)。
最初に異言が取り上げられたのは、当時のコリント集会の人々が、この特異な御霊の現れを特に誇っていたか らでしょう。彼らの語る異言は、異国の人の言葉だけではなく、天使の言葉だとされていたと推察されます。確 かに御霊の語らせる異言には、天上の響きを思わせる霊 歌が出ることがあります。続いて預言と知識が取り上げられます。コリントの教会は自分の 霊知《グノーシス》を誇る人たちがいて、パウロは特にこの人たちを戒めねばなりませんでした。また御霊の力 に頼り病を癒し奇跡を行う者は、その様な力ある信仰を誇り、他の人の信仰を見下げる傾向の人がいました。そ の人たちに(山をも移す信仰)=力があっても、愛がなければ何にもないのと同じだと警告します。最後に、 「全財産を貧しい人の為に使い尽くす」とか、信仰の為に「わが身を死に引き渡す」と云う最高の宗教的行為 も、愛を生きる為でなければ、人に誇ることはできても、神の前では何の益にもならないとされます。施しとか 喜捨は、単なる道徳的行為とか慈善行為ではなく、自己否定の行為であり、宗教的行為としては最高の行為で す。それでも「愛がなければ」何の益もないのです。
こうして愛だけがすべての霊的な能力と宗教的行為を意味あるものとする源泉であることが、示されます。で は、その愛はどう云うものでしょうか。愛が実際に働く姿は?
バルナバ栄一の『「信仰・希望・愛」の展開の物 語』
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