バルナバ栄一の『「信仰・希望・愛」の展開の物語』 第六部 その1-(4)
二種類の命
ここで「私が命のパンである」と云われたイエスの 言葉は、ナザレのイエスがユダヤ人にだけ語っている言葉ではないのです。復活者キリストが世界に向かって 言っておられる言葉です。むしろ、この「わたし」は本来、霊なる復活者キリストが世界に向かって云っておら れる言葉でもあるのです。復活して今 も生き給う霊なるキリストが、信仰によって彼、キリストに結びつくすべての人にとって、いのちの源泉となって下さる方 であるからこそ、地上のイエスが「私が命のパンである」と云うことが出来るのです。
「よくよくあなた方に云っておく。信 じる者には永遠の命がある。私は命のパンである・・中略・・そのわたしを食べる者は、いつまでも生き る」(ヨハネ福6;40〜51)
「イエスを信じる者は永遠のいのちを持っている」とイエスは断言されます。そして、
「信じる」とは天から下ってきた命のパンであるイエス・キリストを食べることだとし、「永遠の命をもつ」こ とを単的に「決して死ぬことはない」、「いつまでも生きる」と表現されます。当然「いつまでも生きる」に対 して、人間は、イエスを信じても信じなくても、同じように死ぬではないか、と云う反論が出てくるでしょう。 それは霊から生まれる者が上より与えられている命は、生まれながらの命と全然別のものであることを知らない からです。人が生まれながらに持っており、やがて死んで行く地上の命は「プシケー」と呼ばれ、霊から生まれ た者が上より与えられる命は「ゾーエ―」と呼ばれています。「一粒の麦」の譬えは「自 分の《プシケー》を愛する者はそれを失い、この世で自分の《プシケー》を憎む者は、命を保って永遠の 《ゾーエ―》に至る」(ヨハネ12;25)。そして、霊から生まれる者が持つ命は、いつ もただ一言《ゾーエ―》と云う語でも表わされます。《プシケー》で示す命は、信じる者も信じない者も同じよ うに死にます。けれども信じる者が持つ《ゾーエ―》が顕す命は別種のものですから、《プシケー》の死と関係 なく生きています。「わたしを信じる 者は死んでも生きる」と云うのはこのことです。《プシケー》は死んでも《ゾーエ―》は生 きています。そしてこの《ゾーエ―》によって霊なる復活者キリストとの交わりにある者の《ゾーエ―》は何時 までも死ぬことがありません。復活者キリストによって生きているかです。「生きていてわたしを信じる者は、 いつまでも死ぬことはない」のです。
それでは霊魂不滅説と一緒ではないか。彼らも肉体は死んでも霊魂は存在すると信じている、と云う批判があ ります。でも違うのです。第一に、霊魂不滅説の霊魂は人が生まれながらに持っているものですが、《ゾーエ ―》は、上から新しく与えられるものであることです。福音の光の下では、人間の体と霊魂は分けることが出来 ない一体であり、その全体が《プシケー》に属するものとして死滅するのです。それが人間の存在様式です。創 造者なる神が《ゾーエ―》にふさわしい体を創造して下さる、それが復活です。ですから《ゾーエ―》は復活に 至る質の体である、と云えます。霊魂不滅的な永遠ではなく、ヨハネ福音書は永遠の命《ゾーエ―》を告げ知ら せようとします。それで、永遠の命を語る時には、同時に復活を語らなではおれないのです。イエスは繰り返し 言われます。
「わたしを遣わされたかたのみこころ は、わたしに与えて下さった者を、わたしが一人も失わずに、終わりの日に復活させることである。わたし の父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることである。そしてわたしはその人々 を終わりの日に復活させる」(ヨハネ福音書6;39〜40)
復活こそ永遠の命の具体化(体を備えた完成像)です。復活に至らない命は結局滅びるのです。私たち信じる 者は、現在すでにこのような質の命を上より賜り、それを内に蔵し、それによって生きています。けれども、そ れを滅ぶ筈の《プシケー》に属する体の中に宿し、《プシケー》に属する、生まれながらの人間性(聖書はこれ を肉と云います)との戦いの中でうめきながら《ゾーエ―》にふさわしい体が与えられる日を待ち望んでいま す。復活への望みこそ、《ゾーエ》の基本的な標識(メルクマール)です。
バルナバ栄一の『「信仰・希望・愛」の展開の物 語』
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