バルナバ栄一の『「信仰・希望・愛」の展開の物語』 第六部 その1-(1)鳩

「信仰・希望・愛」の展開の物語

 第六部 「永遠のいのち」  (その1)

 


 「わたしが復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。また、生きていてわたしを信じる 者は、いつまでも死ぬことはない」

(ヨハネ福音書11;25〜26)

 現代では、死ねば自分と云う存在はなくなってしまうのだから、死を考えても仕方がない。生きている間、楽 しめばよいのだと云う生き方をしている人が多いようです。しかし、大抵の人間はそれでは納得できず、何らか の形で死後の存在を問題にせずにはおれない面を人間は本性的に持っています。それが宗教を生み出します。そ して、人間の歴史全体から見れば、死後の存在を信じている人が圧倒的に多いのです。しかし、人間は死後どう なるのか?これは所詮、聞き伝えか想像にすぎません。いま現実に「死んでも生きる」、「死ぬことはない」と 確信できる質の命を持つのでなければ、明日死ぬかもしれない生の無常を克服し、確かな希望を持って生きる事 はできません。時は一切の生けるものを死滅の淵に押し流し、すべての生に無常の刻印を与えています。時の流 れのただ中にいながら、この時を超え、その無常性を克服する質の命、すなわち、「永遠のいのち」を内に持つ ことが出来るのでしょうか。出来るとすれば、それはどうすれば得られるのでしょうか?

 マルコ福音書に、ひとりの青年がイエスのもとに走り寄って跪いて尋ねました「善き師よ、永遠の命を受け継 ぐ為には、何をなすべきでしょうか」。この質問は、死を超える命を慕い求めないではおれない人間の深い求め を代弁しています。この切実な問いにイエスは、また神はイエスを通してどのように答えておられるのか?を今 回は考えようとする機会です。この人は、善き師から善き教えを聞いて、よく自分で考えて、それを守ろうとし たのでしょう。しかし、いのちの言葉はそのような次元のものではないのです。

 イエスは何をすべきであるかについてモーセの律法を一応引用されます。青年はそれらの律法はすべて行って いると答えます。彼は何をすべきであるかを知り行っているのです。それだのに自分の中に「永遠のいのち」が ないのを自覚しています。永遠のいのちとは。たとえそれが神の戒めを守ることであっても、人が何かを実行す ることで得られる性質のものではないのです。イエスはその事を悟らされる為に、彼に云われます。「自分の持 つものをすべて売り払い貧しい人に施しなさい。そして私に従いなさい」と。イエスはここで慈善の行いを求め ておられるのではありません。彼がこのような問いを発する立場、すなわち、自分のわざで永遠のいのちを受け ようとする立場を打ち砕く為です。イエスは彼に「財産を施すこと」でなく、「自分を捨て、ただ神の恩恵だけ に依り頼む道」、霊において貧しい者 の道を歩むように求めておられるのです。それがイエスの道であり、イエスに従うことで す。自分が持っている能力、知識、教養、立派な人格や善行、これらの一切は「神の国」に入るのに無意味だと 認めることは立派な人ほど難しい。どんな人も自分なりに自分の立派さを主張したい。自分の持っているもの を、徹底的に否認し、ひたすら神の恩恵にすがって、神によってのみ生きようとすることは困難です。これが人 間の本性的な罪なのです。だから、イエスは云われました。「財産のある者が神の国に入るのは、何と難しいこ とか」と。それでもイエスは言われます。「狭 い門から入れ。滅びに至る門は大きく、その道は広い。そして、そこから入って行く者は多い。命に至る門 は狭く、その道は狭い。そしてそれを見出す者は少ない」(マタイ7:13〜14)。永遠のいのちは自分の中にはなく、ただ神から だけ来るものです。上から与えられるものです。多くの単純・純粋な信仰を持つ婦人や子供 が「狭い門」を通って、永遠のいのちに到るのは、ただ神の恩寵だけに頼っているからです。


 

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